Pray-NOVEL4

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 夏の夜は昼間の太陽を懐かしむように、闇にその熱を恋人の残り香のごとく取り込んでいく。けれど香りも熱も一晩経てば霧散してしまうから、毎日詰め込む作業を惜しまない。夜の空気に不思議な芳香がするのは、闇から漏れ出た太陽の欠片のせいだ。闇に熱を貯め込めば貯め込むほど、夜の焦がれる想いはますます深まっていく。
 人影絶えた自然公園の長い石階段を、望遠鏡を抱えて駆け上っていく影一つ。今日も律義に任務を続ける街灯の明かりに照らされて、零れる汗が束の間の軌跡を描いていく。
 雲の消えた夜空には数えきれないほどの星々が大粒小粒揃って、空気に揺らめいて輝きを放つ。階段を一段上がるごとに星に近付いていく。そしてこの先で待っているであろう、大切な少女にも。
 額の汗を乱暴に拭き取り、そして真っ直ぐ前を見据えて再び階段を上っていった。

 最後の段を登り切った時、レンは一瞬初めて出会った時に戻ったのかと錯覚した。闇の中にスカートをはためかせ、柵を強く掴み、こちらに背を向けて佇む少女の影。なにもかもあの時と全く一緒だった。
「なんで、来るのかなあ。あんなひどいこと言ったのに」
けれど、振り向いてレンを見る眼差しは、あの時とは全く違うものだった。
「賭けてたの。もし今日レンが来たら、ちゃんとお別れをしよう。もし今日レンが来なかったら、初めて会った時に出来なかったことをしようって」
「……その、出来なかったことって」
「飛び降り」
 今日の天気を教えるような口調で彼女は言った。そのなんでもないものだとばかりに笑う笑顔の裏に、言い表せないほどの絶望が見えた気がして、レンは強く拳を握り締めた。
「私ね、いじめられてるの。よくわからないんだけど、気に入らないんだって。ひどくない? 癖とか成績とかならまだ改善の余地あるだろうに『なんとなく』だって。理不尽過ぎて笑っちゃう」
 にこにこと朗らかに彼女は笑う。完璧すぎるその笑顔は彼女の仮面だ。本当の彼女を覆い隠して、傷も痛みも何もないように振る舞う、道化の道を選んだ彼女を守るもの。
「色々やられたよ。教科書にサインペンで罵詈雑言、二階の窓からバケツの雨、机に素敵にゴミを盛られてたこともあったし、上履きは三回くらいどっかいったかな。靴に押しピンが入ってた時は流石に古風すぎておかしかったあ」
 彼女が指を折って数えていくのは、レンにとっても耳を塞ぎたくなるほど悪意のこもった所業の数々。仕掛けた犯人達にとってはただの暇潰しだろう、けれどその原始的な悪意を向けられる方は確実に精神を擦り減らされていく。
「こんなことよく飽きもしないでやるよねって思ってたら、こないだの万引き未遂。あれもたまたま本屋であの子らに遭って、私が持ってた文庫があの棚のやつだからってだけだったのよ。あの子等にとってあれはゲームであって、自分たちが楽しければそれでいいの。将棋やチェスの時、取られる駒に感情移入しないのと同じ」
 レンはあの時のことを思い返す。あのグループの面々の口元に浮かんでいた歪んだ笑みは、自分が関与していないし、もし明るみに出てもしらばっくれることが出来るという自信から来るものだったのだろう。反吐が出る。
「辛くて辛くて、でも誰にも相談できなくて、もういっそ死んじゃおうかって思ってここに来たの。それがレンと初めて会った日」
 そして彼女はレンの記憶のままに、見下ろす街並みへ身体を向けてレンを視界から完全に追い出した。
「びっくりしたなあ。まさかあんな時間に人が、それも同じくらいの男子が来るなんて思いもしなかった。しかも柵を越えようとした時、レンが言った言葉覚えてる? 『星見るならここからでも充分だから!』」
 くすくすと彼女の肩が小刻みに震える。その腕を背中に回して、彼女は柵の向こうの星空を見上げた。
「こっちは死のうと思って柵を登ってるのに、レンは天体観測のためだと思った。そんなの拍子抜けするしかないじゃん? ああでも星を見せてくれたのは嬉しかったよ、嘘じゃない」
 望遠鏡を覗き込んだ時の彼女の表情は今でも克明に思い出せる。あんな嬉しそうな顔を見せてくれるなら。それを思うだけで、長い階段もレンは全く苦にならなかった。体に羽根が生えたみたいにどこまでも駆け上っていけた。
「初めてだったの。もう一度会いたいって、ずっと一緒にいたいって思ったの。だから私、この数カ月堪えられた。星のことをもっと知りたいと思って勉強もしたの」
 同じだったのだ。レンは震え上がるほどの喜びに駆られた。彼女もまたレンと共にいたいと思っていてくれたのだ。以前の自分ならきっと浮かれるばかりで、他のことをおざなりにしてしまっていただろう。けれど。レンは拳を握り返した。本当に知りたいことはこの先だ。
「普段はいじめられっ子のクラスからの嫌われ者。でもここへ来る時だけはただの『リン』でいられた。それがどれだけ嬉しかったか、分かる? ここで私は自由になれた。一人と一人として誰にも見つかる心配のない、ここが私にとって最後の楽園なんだって思ったの」
「だからこそ、レンに見られたくなかった。地上の地獄で私がもがいてる姿なんて、あの楽園の住人だったレンだけには絶対見せたくなかった。見られた時が楽園の終わりだって覚悟してた」
「だからもう終わりなの。この楽園も私の人生も。最後に会えて良かった」
 そこでやっと言葉を切って、彼女は振り向いた。レンを見つめて仮面の笑顔で突き放した。

   
「だから、さよなら。ありがとう、ばいばい」

 彼女が足先を柵にかけた瞬間レンは走り出していた。彼女が登り切る前に腕を掴んで強く力を込める。
「いった……! ちょっと、レン! 放して!」
 掴まれた腕をなんとか振り解こうと彼女がもがく。しかし片手は支えにせざるを得ないこの状況下、同じ歳といえども男子の拘束をろくに力も込めてない状態で解けるわけがない。
 レンの手を放そうとして彼女が大きく体を動かす。その力のぶんだけ傾いた重心は、彼女の天秤の釣り合いを不平等にする。もう一度掴もうとした手の平の汗が潤滑油になってしまい、柵は彼女をいとも容易く拒んだ。
「や……!」
 一瞬感じた浮遊感はしかし、次の呼吸の間に消え失せた。背中から包み込まれる感触に彼女は深い安心感を覚えて、そしてそんな自分に対する嫌悪感が胸中を占めていった。
 放して、と叫ぼうとしたその声を、重ねるようにして塞いだのは、彼女を抱き止めたレンの声だった。
「なあ、『みなみのかんむり座』の話をした時のこと、覚えてるか?」
 腕の中で彼女がそっと首を振る。柵に乗せたままのサンダルの紐が、彼女の白い肌に映えて闇の中浮き上がって見える。
「あの星座は誰からも愛されない星座だって、適当なお遊びで作られただけの星座だって、言ってたよな確か」
 彼女は記憶の中にある自分の言葉に耳を傾ける。あれは確か上履きを隠された三度目があった日の夜。梅雨が過ぎれば夏が来る、夏が来ればまた別の星座が見れる。そう言って笑う彼の顔を真っ直ぐに見ることが出来なくて、つい胸の内にあった思いを言語化してしまった。
 この暗黒の中にいつまでいればいいのだろう。季節が過ぎることすら彼女には、もはやどこか遠い世界の出来事のように感じていた。晴れていれば彼に会える、それだけを支えに生きることしか考えられなかった。
 月のようだと、あの時彼女は気付いた。井戸の底に住む蛙が見上げる空だけが世界だと思うように、彼の言葉だけがこの狭く苦しい暗闇を照らしてくれる。住む世界が違うと思い知らされながらも、焦がれることを止められない小さな蛙は、月が見える夜を心待ちにするのだ。
 きっとこの人は人間じゃない。一人ぼっちの私のところへやってきてくれた、夜の使者か何かだ。一緒に居ることで感じていた心地よさは、間違いなく彼女をここまで生かした。
 もう充分なのに。彼女は歯噛みする思いで彼の声を聞いていた。あの幾つもの夜の記憶だけを抱えて、私は地獄へさえも笑顔で歩けるだろうに。どうして、この腕は私を振り払ってはくれないんだろう。
「でも、俺はそう思わない。あの星座が誰にも愛されて無かっただなんて、俺にはどうしても思えないんだ」
 例えば満月の夜に眩い光のベールをかけられるような、ベッドに寝転んで毛布の優しい肌触りに頬ずりしたくなるような。彼の言葉はそんな風に彼女を包み込む。その心地よさに身を任せてしまいたくて、けれどそれを拒む彼女の声が止むことはない。
 一緒にいたいと願っても彼がもしそれを望んでいなかったら。そんな未来が見える気がして、先回りばかりしてしまう。その心地よさを他の誰かに早く渡せるように、自分がこれ以上傷つかないように。
 けれど胸の底の底に隠した本音が行き場を求めて暴れ狂う。本当は誰にも渡さないで、私だけを見ていてほしい。それは独占欲に他ならず、そんな我儘で彼を縛りつけたくはない。
 だからいっそ愛さないで。優しくしないで。期待させないで。特別扱いは誇らしいけれど、拘束は互いの身を滅ぼすだけだから。

「あの星座は、未来の人が神話を作れるように残された、白紙の星座なんだよ」

 そう願わずには、いられないのに。
いつだって彼は蛙でしかない彼女を遥かに通り越して、予想もしない言葉を教えてくれるのだ。
「白紙の、星座……」
「そうだよ、そうに決まってる。俺たちみたいなのがさ、好きにあの星座の話を考えられるんだ。昔の人が未来の人に託した挑戦状なんだよ、きっと」
 なんて、格好つけすぎかもな。照れくさそうに笑うその表情でさえも、手を翳してしまいそうなほど眩しい。明けることを知らない暗黒の中に一筋の光が差し込む幻想を、彼女は見た。
「けれど、もしそうなら、どうして誰も今までつけなかったの。私たちまでに気付いた人は沢山いるだろうに」
「それは勿論、今まで沢山の人が神話を考えたに決まってる。だけど皆、それをつけるのが惜しくなったんじゃないか」
「……それじゃ、何も変わらないじゃない。やっぱり愛されないままだよ」
 けれど、その光を受けることしか彼女は知らない。受け取って、抱きしめて、そうして私はどうすればいいのだろう。その希望だけを頼りにこれからも暗黒の中で生きていけというのは、ただの生殺しではないか。
 ふ、と彼の纏う空気が柔らかくなる。知ってる、これは彼が自身の照れくささを押し殺して、私に大事なことを教えようとする時の、笑顔から零れ出した光の欠片。
「だって、自分だけの神話を見ず知らずの他人に教えるなんて、勿体無いだろ。折角作った話なら、大事な人だけにこっそり教えたいじゃんか」
「大事な……人」
「それでさ、あの、さ」
 躊躇うように彼が一瞬口ごもり、不思議そうに振り返った彼女の瞳に映ったのは、闇の中でもはっきりと分かるほど朱に染めた頬と、どこまでも真っ直ぐな青い瞳。

「俺は教えるより、大事な人と一緒に作りたい。だから、俺と一緒に、神話を作ってください」

 その声を、その言葉を、その願いを、彼女はどれだけ焦がれただろう。
 彼女の仮面に小さなひびが入る。それは拡散と細分を繰り返し、広がっていくのを止める手立てはない。そうして微かな音がして、端から砂よりも小さな粒となって崩れ去っていった後に残ったのは、今にも泣き出しそうな、真っ赤な目尻を堪えて青い瞳を潤ませる、一人のリンだった。
「レ、ン」
 リンが顔を歪ませてレンの名前を呼ぶ。そうしなければ眦の堤防が壊れてしまうのだろう、零れ出た声の振動がレンにそのことを告げた。生々しい感情の波はリンがずっと秘めるしかなかったもので、だけど抑えられていた時間だけ解放される瞬間を待ちわびていた。
 サンダルを履いた白い足が柵から降ろされ、こちら側の地面に着地する。そうしてリンはレンの胸元に額を押し付けた。
 肩が、足が、腕が、指先が、震え出す。頬が引きつって上手く表情を作れない。きっと今自分はひどい顔をしているだろう。
 嬉しい。何も飾らない純粋な喜びが、心の奥底から溢れて溢れて止まらない。その感情の奔流を表現する言葉が思いつかなくて、リンは不器用に笑うしかなかった。
 レンは刹那の躊躇に心を決めて、リンの肩にそっと腕を回す。リンを包み込むように、リンを離さないように。そうしてリンの良く知る、照れくささを押し殺した真摯な表情で、彼女に言葉を贈った。

「リン、俺と一緒にいてください。俺のために生きててください」

 レンの背中に回された細い腕が、リンの今出来る精一杯の返答だった。
 リンを強く抱き寄せた熱い腕が、レンの今出来る精一杯の返礼だった。

 星の光は遠く、闇は深い。けれど繋いだこの温度があれば、楽園はいつもすぐ側にある。

  ******

 深い漆黒の夜空を彩る星々の群れは、今日も地上で生きる星達を見下ろして静かに煌めく。
 星と星を線で繋いでその形が作られた時、なにより眩い星座になるのなら、それは互いにとって一等価値のある存在になるのだろう。




Fin



コメント

七瀬亜依香 七瀬亜依香
初めて聴いた時、大切な誰かを守りたいと叫ぶ歌詞とレンの切実で力強い声に胸がつまって苦しくてたまらなかったことを昨日のことのように覚えています。
 その感情に明確な答えを出せぬまま過ごしていたある日、唐突にあのラストの場面が思い浮かびました。かつて傷を負った少年が大切な少女を救うために過去も傷も受け入れて手を伸ばす、これはそういう物語です。
 作中にいじめのシーンが入りますが、これはフィクションです。そうであってほしいと切実に祈っています。私も文章を打ちながらレンと同じように悩み苦しみもがいて、あのラストにまで辿り着きました。あれが全ての人を救うラストとは思っていません。あれは一人の少年が一人の少女を救うために考え抜いた先の言葉だからです。だからもし、大切な誰かに思いを伝えるのだとしたら、あなたが考え抜いたあなただけの言葉を届けてあげてください。

 どうか世界中のリンとレン、リントとレンカにいつまでも笑顔が絶えませんように。

 私の拙作が少しでも原曲の魅力を増すお手伝いが出来ていれば、こんなに嬉しいことはありません。 
 Masaki様ともちょこ様、主催の橙-ORANGE-様とアンメルツP様、そしてここまで読んで下さったあなたと鏡音を愛する全ての人に、心からの感謝と御礼を! ありがとうございました!

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