NOVEL-1

Pray


文字サイズ:

 人の価値を決めるものはなんだろう。ある人はそれを才能の有無と言い、ある人はそれを今立っている地位だと言う。地上の星屑の中で玉石混合、たった一つを神のように崇めたり自分以外を塵芥だと切り捨てたり。誰もが持つ傲慢で絶対が決まる、そんな世界が時々無性に息苦しくてたまらない。その喉を焼くような葛藤は一生消えてくれないと悟るのは容易くて、声にならない何かで叫び出したい衝動は理性が簡単に抑え込んでしまう。胸に宿ったままの違和感を人は見ないふりをして、今日も一日世界が回る。
 そして心のずれた隙間を埋めるものがあるとするなら、それはどんな言葉を成すのだろうか。


 ******


 ふと、何かに呼ばれたような気がして視線を上げる。すぐ側の窓から差し込むのは、うららかに眠気を誘う春の陽気と霞がかって柔らんだ陽光。さわさわと耳をくすぐる葉擦れの音は、ついこの間までもっと無音に近い無数の花びらの羽ばたきだったというのに気の早いことだ。
「レン、何見てんの?」
 不意に名前を呼ばれて視線を向ければ、この四週間ほどで見慣れた瞳が光を跳ね返した。
「なんだ、リントか」
「なんだとはなんだ、折角人がわざわざ声をかけてやったのに」
「どうせさっきの数学のノート目当てだろ」
「ご明察」
 椅子の背もたれに組んだ腕と顎を乗せて、からからと口を開けて笑う表情を見ながらレンは小さく溜息をついた。
 新しい学年になって一ヶ月余り。教室の雰囲気は読み取れるだけの個性を身につけて、それでもどこかそれぞれを牽制し合う僅かな緊張感が漂う。相手との距離を測りながら自分の位置を把握するのは、この閉じた世界で持たざるを得ない防衛本能。誤ってしまえばそれはそのまま命取りに等しい結果を招いてしまうから。
 そんなことを目の前の人間は考えたことがあるのだろうか。初日から教室中の視線を集めてやまない彼は、今だって後ろから呼ばれた己の名前へ気軽に手を振って応えている。
よく笑いよく話し、そして相手の懐にするりと入り込んでしまうこのクラスメイトに、レンは何故かクラス替え初日からよく絡まれている。その人懐っこさにむしろ戸惑いを強くさせて、今もまた胸の内に抱え続ける。けれどそれを口に出さない分別も流石にレンは持ち合わせていた。
 下手に敵を作らない。それはこの狭い世界での絶対的な真理だ。
「さっきの授業、別に寝てたわけじゃないんだろ? なら……」
「ああ、確かに寝てなかったさ。結果的には、な」
「は?」
 レンの席は一番ドアから遠い場所だ。窓側の一番後ろは教室中の生徒の様子がよく見える。だからどの生徒がどの授業で寝ているかもよく分かる。対してリントの席は中ほど三列目。レンからはちょうど隙間が重なって比較的見やすい場所にある。だから先程の数学で彼の背中が丸まらなかったことは確認している。かといって確かにノートを取っている雰囲気でもなかったが。
 レンの呆けた声が嬉しかったのか、リントは口の端を吊り上げていかにも楽しげに笑う。そういう表情が彼にはこれ以上なく良く似合った。
「俺はいつか、目を開けたまま睡眠を取る技術を体得してやるのさ!」
 そしていかにも重々しく告げられた決意は、どうしようもなく馬鹿らしかった。
「……は、い?」
「くくく……余りにも壮大な計画にぐうの音も出ないか。恥じることはないぞ、同士レン」
「俺はいつから仲間になったんだ」
「止めるなよ、これは全ての学生の念願を叶えるための前段階でしかないんだ」
「や、まだなんも言ってねーし」
「いつかはこの技術を特許化して、そしてこの世は大睡眠時代!」
「社会が崩壊するぞ、それ」
 わざとらしい言い回しの台詞の間に細かく表情とポーズまで変化させながら一人盛り上がる姿が、どうにも様になっているように見えてくるから美形というのは恐ろしい。
「そうだレン、プロジェクトの一環として今日の放課後に枕を見に行かないか。目星はつけてるんだ」
 そしてなんの屈託も無く相手を誘える彼の笑顔が、ひどく恨めしい。
 思わず詰まった息を溜息に変換して無理に吐き出す。強張った四肢を相手に見えないようにそっと動かして、皮膚を骨を神経をゆっくりほぐす。まだ固い表情筋を上に吊り上げて歪な笑顔でレンはリントから僅かに視線を逸らした。
「ごめん。俺、放課後用事あるんだ。だから行けない」
「そっか、残念」
 上手く誤魔化せたのだろうか、笑って流すリントの視線にこちらを訝しむものは無かった。そしてすぐにチャイムが鳴り響いて教師がドアから現れる。自席へ戻っていく彼の背中を見送ってそっと漏らした溜息は、本人にも分からぬ僅かな湿り気を含んでいた。

 
 ******


 春の薄闇をこれでもかと切り裂くように街灯の明かりは、通る者の途絶えた道を煌々と照らし続ける。己の定められた任務に忠実な背高のっぽの行列の下をくぐり抜けていく影一つ。Tシャツ、パーカーにズボンという緩い服装で大事に抱えた宝物と、街灯の間にある長い石階段を上っていく。この近辺で一番大きい自然公園は昼間には憩いを求める人々が行き交うが、流石に深夜も近いこんな時間では人影無く、空気は静寂に包まれている。
 中ほどで一旦止まり荒い息を零しながら、レンは肩と胸で支える荷物を抱え直してまた調子よく駆け上っていく。昨日までの雨で夜空はすっかり澄み渡り、スニーカーが石段を蹴る度に星との距離が近づいていく。空へ向かうほどに街灯の列は隙間を増やし、辺りは闇の色を濃く深くして空の色と繋がっていくような、そんな予感にレンは我知らず身震いした。
「(こんな観測日和は久々だ……!)」
 レンの唯一といっていい趣味が、天体観測である。たまにこうして観測のために夜の街を抜けて、高台の上で飽きることなく星を眺めている時間は、彼にとってどんなことよりも心が躍った。
 背負ったリュックも抱えた望遠鏡の重さすら心地よく、足取り軽く最後の段を登り切り、そして唐突に足を止めた。
 いつもは貸し切りの高台の広場。そこに一人たたずむ影を見つけて、レンは目を見開く。
「(珍しいな、こんな時間に先客だなんて)」
 高台の端っこ、ちょうど街を見下ろす柵の前に忘れられたように立ち尽くす姿は目を凝らせば、微かな風にスカートが気だるげにはためいていた。女の子か、と一人ごち、それにしてはやけに柱を掴む手が強張っているなとなんともなしに眺めてしまう。
 しかし、唐突にそのままではいられなくなった。少女がその柵を乗り越えて向こう側へ行こうとしたからだ。
「え! ちょ、ちょ、ちょっと君!!」
 思わず口から飛び出した言葉の弾はその勢いのまま、柵に足をかけた少女の背中で弾ける。振り返ってこちらを見返した影の中で、彼女の瞳が鮮やかな青に彩られているのが何故かはっきりと分かった。
「……そこ危ないから! 星見るならここからでも充分だから!」
 一瞬詰まった息は何を意味したのかと気付く機会を、言葉で重ねて過去にしていく。そんなこと今思ってもどうしようもない。今やるべきはあの少女をこちら側まで引き戻すことだ。
 幸いにしてレンがもう一度呼びかける前に、少女は足を柵の内側に降ろしこちら側へ何事もなく着地した。口内で溜めていた空気はそのまま安堵の溜息へ変わる。
 けれど少女はそこで動きを止め、柵を掴んだままじっとこちらから視線を逸らさない。見つめる、というには空虚で、睨む、というには彼女の瞳は丸く大きかった。ちかり、と一つ瞬いたのは反射した街灯の光か。見下ろす街並みの明かりに照らされて少女のシルエットが闇の中でほのかに浮かび上がり、自分とそう歳が変わらないことを見極めるのは容易かった。
 ぴりり、と漂う一本線のような緊張感にレンはどうにか喉を動かして唾を飲み込む。頭の中で巡る思考を落ち着かせるように一つ息を吐いて、少女の瞳を見据えた。
「え、えと、こんばんは?」
 他に何か言うことがあったんじゃなかろうか自分。
 唐突なのはそれは向こうも同じだったらしく、虚を突かれたようにぽかん、と口が開いた。そしておずおずと少女は腕を身体の前にやり、軽く腰を曲げる。それはどう見ても挨拶の仕草だった。
「え、えと、こんばんは」
 こちらに向けたままの顔に苦い笑みを浮かべられているのが、なんともやりきれない。
 朱に染まった頬を見られたくなくて、レンは慌てて少女に背を向けて抱えたままだった望遠鏡を降ろす。慣れた手つきで組み立てていくその手さばきに惹かれたのか、少女はそっとレンの背後に近づいてその過程を見守る。レンズを固定して調節し終わった時思っていたよりずっと近くに彼女がいたことに、レンは内心度肝を抜いた。
「ねえ、これって望遠鏡、よね?」
 星の光のようだとレンは思った。間近で聞いた彼女の声はきらきらと光る粒が見えるような、眩い色をしていた。
 魂を奪われたように呆けて頷くしか出来なかったレンを意に介さず、彼女は大きな青い瞳をこれ以上ないくらい真ん丸にしてレン愛用の望遠鏡を見つめる。その姿を見て彼女の問いかけは好奇心というより、熱のこもった親しみからくるものだとレンは不意に気付いた。
「え、君も、星が好きなの?」
 ほとんど条件反射のように呟いた言葉に、少女の瞳がレンを捉える。間近で見れば彼女は幼いながらも整った顔立ちで、今更ながらにレンは自分の加速していく鼓動が聞こえてしまわないか気になって仕方なかった。
 大きな瞳がゆっくりとレンを眺め、そして瞬いた呼吸に合わせるようにしてにっこりと笑った。少女の満面の笑みに今度こそレンは言葉を失った。
「うん、素人知識しかないけどね」
 胸が苦しい。心臓がうるさい。言葉にすればそれだけのことが、今は身体全ての感覚を握って何も考えられなくなる。吐く息さえも甘さを纏うようで、視線はその青い瞳に吸い込まれたままで。今まで何度も使ってきた言葉が急に現実味を帯びて、レンの思考を埋め尽くした。
 ああ、綺麗だな。
「望遠鏡って高いでしょ? だから中々手が出せなくて」
 滑らかに望遠鏡を撫でる指に嘘の陰りは無い。やや羨望の混じった声にレンはようやく我に返った。
「……そんなこともないぞ。本当に安いのだったら六千円くらいあれば買える」
「え、本当?」
「大真面目だよ。まあそりゃあ拘ればあと桁が二つくらい増えるけど」
「そんなの手届かないよ~」
 声と声が誰もいない高台の中に浮かんでは消えていく。レンは望遠鏡のレンズを覗いてピントを合わせ、星を探し当てて少女に譲る。覗き込んだ先で歓声を上げて見入る彼女は素人知識なんてとんでもない。星を繋いだ線を教えるだけでどの星座か言い当てる力は、一夕一朝で身につくものではない。
「あれが、おおぐま座とこぐま座」
「女神の怒りで熊にされた母親と母を知らずに育った息子の星座よね」
「おとめ座にしし座、上にはうしかい座」
「スピカ、デネボラ、アークトゥルスで春の大三角形……だっけ」
 打てば響くように返ってきて、知らず知らずのうちに二人で笑い合わずにはいられない。そんなシャボン玉のようなやり取りがひどく心地よかった。
だから夜も更けてお互いに言葉少なになった時、思わず漏れ出た言葉はレンにとって、嘘偽りのない本心だった。

「また、ここに来る?」

 
少女の瞳の膨張率が最高記録を叩きだす。それに気付いた後、自分がどれだけ恥ずかしいことをのたまったのか、遅れて理解したレンの脳内混乱数値も最高値を振り切った。
 なんだ、今のは。これじゃまるで、ナンパみたいじゃないか。
「わ、い、いや、その、別に、裏とか変な意味とかじゃなくて、その」
 けれど完全に否定しきれない下心を上手く隠す器用さは、生憎レンにはまだ早すぎた。
 この子はきっと人間じゃない。だからこんなに綺麗で、自分と一緒に居ても笑ってくれる。そんな空想めいた考えがしかしレンを惹きつけてやまない。満天の星空の下、この綺麗な少女と星の話をする。そんな甘美な妄想が、現実から一歩遠ざかったようなこの場所では実在するんじゃないかと思わずにはいられなかった。
 そんなレンの混乱ぶりを見て、逆に少女は数回瞬いて冷静さを取り戻す。ふふ、と軽く噴き出して隣の少年に笑いかける表情がやっぱり綺麗で、レンの心臓を軽々と跳ね上がらせた。

「うん、そうする」

 
 甘やかに鼓膜を震わす星の声は今までで一等柔らかい。だから自分もそういう風に聞こえるようにとレンは少女に呼びかけた。
「俺、レンっていうんだ。君は?」
 彼女と向き合うのには苗字も所属もいらない気がして、これ以上なく簡潔な自己紹介はその実彼の全てを表していた。
「私はリン。よろしく、レン君」
 そして二人は出逢った。ただの『リン』とただの『レン』として。




1 / 2 / 3 / 4

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional