Pray-NOVEL2

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 どんなに互いが会いたいと思っていても、タイミングが悪ければ出会いようがない。その点、レンとリンはまるで引き寄せあうかのように互いの波長が合った。
 元々観測に適した天候というのは絞られてくる。雲が多すぎれば星を隠してしまうし、風が強ければ望遠鏡の土台が安定しない。晴れていてもその他の条件で断念せざるを得ない日も少なくない。こればかりはお天道様のご機嫌次第だ。降り続ける雨を鬱屈とした思いで見上げたり、連日晴れ渡った星空の下で石段を駆け上がることになったり。それでも、レンが望遠鏡を抱えて登り切った先で、リンはいつも待っていてくれた。
 望遠鏡で代わる代わる星を眺め、あれがそうだこうだと星座の線を辿り、一等星を指差し、それにまつわる神話を紐解いていく。ただそれだけの時間を、いつの間にか何よりも心待ちにしている自分がいることにレンはとっくに気づいていた。
「そういえば、もうすぐ梅雨だな」
「そうだね、雨だと星が見れないからやだなあ」
 時刻は既に深夜近く、もう星も星座も語り尽くした後でけれど二人とも帰りがたくて鈍く言葉を紡ぎ続ける。隙間が多くとも繋がっている限り、糸は途切れない。
 いつの間にか暦は六月に入り、木々の葉も透き通るような新芽から徐々にその身に色を染み込ませている。雨に打たれれば打たれるほど、その色は濃く深くなっていくことだろう。
「確かに嫌だなあ」
 リンの拗ねたような声に笑って同意の言葉を重ね合わせる。膝を近づけた胸の内で鼓動が少し早回しになっていくのを、隣に座する少女に悟られないように。
 きっと彼女と自分の理由は違うのだろう。観測が出来ないことよりも、彼女に会えないことの方が残念で仕方ないのだと、言える自分であるならもう少し彼女の近くに寄れるのだろうか。けれどそんな勇気をこれっぽっちも持ち合わせていないから、自爆するのは目に見えている。言えるはずがない。
「で、でも、夏になればまた違う星が見れるだろ。俺は楽しみだな!」
 そんな妄想の気恥ずかしさを誤魔化すようにわざと明るく言えば、笑ってくれるだろうと思った言葉はしかし隣の少女にとってそれは苦々しい何かであったらしい。突然殻を閉ざした貝のように口を噤み、顔を伏せるように水底へ潜っていってしまった。それに気付いた時には遅く、リンの視線は既にこちらを向いてはいない。
 あまりに予想外な反応にレンは混乱の淵に立たされた。先程の言葉は彼にとって善意しか含まず、それ故何が彼女をこんな反応に追いやったのかがさっぱり分からない。人によって言葉の捉え方に千差万別の思いがあることを知ってはいても、それが裏表のないものであればあるほど否定的な反応は理解しがたい。見当のつかない過ちが、レンの焦りをますます加速させていく。
 彼女を傷つけたのなら謝りたい。けれど何に対して謝ればいいのかを察せるほど、レンはリンのことを何も知らなかった。年齢も学校も住所も名字も、もしかしたら本名でさえも。この高台で話すことはいつも星についてだけ。互いのことは何一つ話題にしたことがない。いや、もしかしたら無意識に避けているのかもしれない。
 だっていらないから。ここで星の話をする時に互いの個人情報など何の意味も成さない。年齢も学校も住所も本名も、全てのしがらみを振り解いた一人と一人として一緒に居る心地よさを知ってしまったから。もし互いを知ろうとして一歩踏み込んだら、この関係が終わってしまうかもしれない。それはレンにとって恐怖以外の何物でもなかった。
 リンがどこの誰かなんてどうだっていいのだ。ただレンは彼女と一緒にいたいのだ。
 それこそレンが唯一自信を持って断言できる、しかし照れくさくてとてもじゃないけれど口に出せない熱を持った本音だった。
「……ねえ、レン」
 自己の思考に沈んでいたレンを引っ張り上げたのは、隣から聞こえた溜息のような自身の名だった。深海から戻ってきた旅人が海面に顔を出して吸い込む息のように、レンの耳を震わして満たすその声は何度聞いても飽きることを知らない。
「レンは『みなみのかんむり座』って星座、知ってる?」
 しかし余りに唐突にも思えるリンからの問いかけにレンは首を傾げた。その星座を知らないわけではない。夏の南空、いて座の南にある半円形のさほど大きくもない星座のことだ。ただ地平線から十五度ほどしか離れていないこと、四等以下の暗い星々で構成されていることが相成って、余程南側の開けた空気の澄んだ場所でしか見えない、知る人ぞ知るようなそんな星座だ。レンも実際に見たことはない。リンはあるのだろうか。
 ただ、そんなマイナーな星座が何故今このタイミングで話題に上るのか、リンの真意が掴めずレンは困惑げに眉を寄せた。
「その星座ね、本当はずっとずっと大昔からある星座なんだよ。『射手のかんむり』や『ケンタウルスの冠』っていう素敵な呼び名もあるの」
 初めて出会った時から気付いていたが、リンはどちらかといえば天体としてではなく神話としての星座の方に詳しく、乙女座の女神からカラス座の嘘つき銀カラスの神話を空で言えるほどに読み込んでいた。しかしこんな目立たない星座まで見ていたのかと、リンの知識の深さにレンは改めて舌を巻いた。
 けれど何故今に限って、彼女の語る声はこんなにも寂しげなのだろうか。
「だけどね、その星座だけ神話が無いの。大昔からあるはずなのに誰もお話をつけようとしなかったの。なんでだろうってずっと考えてた」
 南の空低くにひっそりと浮かぶ目立たない星座。遥か彼方の過去から伝わる一つの星座。それに線を繋いで形作った人びとは一体どんな思いを託していたのだろう。今となってはもう知る術はない。
「そしたらある日突然判ったんだ。あの星座は誰からも必要とされなかったんだって。ただ気紛れに線を繋げただけのお遊びで、呼び名をつけただけで満足されちゃう、愛されなかった星座だったんだって」
リンが顔を上げる。その透明な表情に闇がじんわりと染みていくのが見えたようで、レンは心身が凍る思いがした。
「ずるいよね。愛さないんだったら、いっそ名前なんていらないのに」
見上げた空は未だ明けず、深々と闇が空気に溶けて広がっていく。地面に座して見上げる星々は途方も無く遠く、そして隣にいるはずの少女すら手を伸ばしても届かない錯覚に襲われた。
 触れられない。戯言のような言葉の中の一片の真実が彼に触れるなと警告する。それは紛れもなくリンの抱える痛みの欠片だった。
 空を見上げる彼女の横顔を見つめながら、レンは手を動かすこともおろか声を出すことも出来なかった。その臆病さも彼の抱える痛みの欠片に他ならなかったから。


 ******


 雨が降り続けている。屋根に木々に葉っぱに当たっては様々な音を奏でているにも関わらず、普段見えている景色を遠くに感じるのは何故だろう。空を覆う曇天はここ数日動く気配を見せず、気紛れのように雨を降らしては傘を忘れた者を嘲笑っているようだ。
 自席に座りつつぼんやりと雨を眺めるレンの心は今ここにない。灰色に塗り潰された空の上まで飛んで行き、届かなくて落ちていくような心持で彼はここ数日を漫然と時間が流れるままに任せていた。
 あの夜から明けた翌日、日本列島は本格的な梅雨入りが宣言された。飽きることなく降り続ける雨と居座ったまま動きもしない雲の大群のせいで、ここしばらく星の影すら見ることを叶わない。そしてそれはそのままリンと会えないことを示していていた。彼女に会えないことが堪えられないわけではない。梅雨入りは元から覚悟していたことだ。けれど今レンの心を埋め尽くしてやまない暗雲は、あの夜の記憶から立ち上るものだった。
 一体リンは何を思ってあんなことを言ったのだろう。冗談として流すには余りにも真摯な声で、世間話と解釈するには彼女の表情に見え隠れた傷が多すぎた。それが彼女の偽らざる本心から零れた言葉だと気づいていたからこそ、何も出来なかった自分をこれ以上なく不甲斐なく感じる。けれど、それはまたレンの偽らざる本当の姿に他ならなかった。
 手を伸ばすこと、誰かを励ますこと。そんなこと、何も知らない自分が、こんな自分が、無許可でやっていいはずがない。自己を責める声が止むことはなく、耳を塞いで拒絶することすら許されない。臆病さは罪と知りながら、何も出来ない自分が一番罪深いのだとレンは抱えた膝の固さだけよく知っていた。
「レーン」
 突然背後から肩を強く揺さぶられて、予想だにしない衝撃にレンは目を回しかけた。頭を押さえながら睨みつけるように振り向くと案の定、意地悪く笑うクラスメイトの姿があった。
「なっにすんだよ、リント! 心臓止まりかけただろうが!」
「えー、だってー、いくら呼んでも返事くれなかったら、実力行使に出るしかないじゃん?」
 そう言われれば、先程から何度も自分の名前が聞こえていたような気がする。耳の右から左を素通りしていたが。
溜息を一つ吐いてレンは机についていた肘を降ろし、勝手に隣の椅子を拝借しているリントに向き合うように座り直した。
「で、何の用?」
「わー、不機嫌度数マックス。あんまカリカリすると頭にしめじ生えんぞ」
「誰のせいだ誰の」
「あ、そうそう。さっきの古典のノート貸してくれ、ていうか貸せ」
「……もしかして、また」
「ご明察。大睡眠時代プロジェクトは目下推進中だぜ、同士レン!」
「だから加入した覚えないって」
「俺が決めた」
「まさかのジャイアニズム!?」
 毎回毎回きちんとお断りを入れているはずなのに何故かいつも相手のペースに巻き込まれているような気がしてならない。そして溜息をつきつつも鞄からノートを取り出して彼に渡すまでの動作が手慣れてきていることに、不服申し立てをしたい気分で一杯になった。
「何悩んでるのか聞かねえが、一人できのこ生やしても何の解決にもならねーぞ、同士レン」
 そして人の琴線を鳴らすような言葉を発するタイミングの良さが、やはりひどく恨めしい。
「……別に、お前に関係ねーし」
「まあそりゃそうだ。当人の問題は当人しかわからねーもん」
 頬を膨らまして拗ねた声を出したのは、本心ではない。彼からの視線を受け止めることが出来ない弱さを隠す演技が、心を揺らされた音量の大きさを語るようで、ますますレンの頬は膨らんでいく。
「じゃあ、構うなよ」
「いいや、遠慮なく構うね」
「言ってることとやってることがばらばらだぞ、それ」
 流石に理不尽を覚えて、レンの眉間に皺が寄る。リントの本意を隠した言葉遊びはいつものことだが、人の悩みまでネタにしようとするのは意地悪の範囲には留まらない。
 しかしリントはどこまでも真面目で、どこまでもレンには理解しがたかった。

「だって、お前は俺の『友達』だろ?」

 一瞬詰まらせた息に彼は気付いただろうか。なんでもないような言葉ほど心を抉り取ることを彼は知っているのだろうか。知っているからこんなことをするんだろうか。その単語こそ、レンがひたすら避けて目を逸らし続けたナイフだというのに。
 咄嗟に繕うことが出来ず、レンはまた視線を逸らす。そうすることでしか平静を保つ術を知らなかったから。恐怖は伝播して心の最奥に鍵をかけて閉じ込めた古傷さえも呼び起こそうとする。もう誰も知ることのないはずなのに、未だじくじくと膿んで癒えることのない記憶に息が出来なくなりそうだ。
 止めろ、止めろ。彼自身の心が叫ぶ声は、警告などというものではなくもはや懇願でしかなかった。
 これ以上、俺に踏み込ませないでくれ。
「……あ、先生来たから戻るわ」
 そう言って立ち上がったリントの気遣いを分からない程度には子供ではなかった。
目を開けると教室中の雑踏が耳に固まりとしてぶつかってきて、過去の幻影が遠くなっていく。そうしてようやくレンはまともに息を吸うことが出来て、ほう、と一つ溜息を漏らした。


  ******


 学生でいる以上どうしたって避けられないものがある。親の目、教師の評価、そして定期試験。生徒を容赦なくテストというふるいにかけ強制的に順番を決めていく。故に学生はよく学べよく励めと机に向かわざるを得なくなる。
 期末試験を三日後に控えた日曜日、レンは少し遠出をして市内の中心部にある大きな書店へ来ていた。母親には参考書を買うという理由をつけて許可を得たが、それはただの名目。本当の目的はそこから離れた場所にある。
「あの、本の取り寄せを頼んでいた者ですが……」
「はい、こちらですね」
 レジ内の店員のにこやかな笑顔と共に差し出されたのは、漆黒の空に色鮮やかな星雲の写真が一際目を引くハードカバー。一つ頷けば慣れた手つきで深緑のビニール袋に収まった本をレンは心待ちにしていたのだ。
 レジから少し離れたところに設置してあるベンチに落ち着いて、買ったばかりの本を手にとってぱらぱらとページを捲っていく。鮮明かつ繊細な星々の写真の間に細かい数値や簡易な説明が視界へ一斉に飛び込んできて、その内容の充実ぶりにレンの口からは抑えきれない感嘆の溜息が漏れ出た。
 レンが持っている本は、今一番の評判を誇る宇宙についての最新版の解説書である。人気が高いこのシリーズは新版が発行されるたび喉から手が出るほど欲しいと思っていたが、最近まとまった小遣い収入があったため手を伸ばしきってなんとか手に入れることが出来たのである。
 今まで知らなかった知識の奔流に一ページずつめくる手がもどかしく、けれど美しい宇宙の姿を切り取った写真をいつまでも眺めていたくもあり、贅沢な二者択一に苦しみつつも目は引き寄せられて止まない。
 百ページほど読んだところでようやく自制心が本を握る手にまで届き、後ろ髪を引かれる思いでレンは本を閉じて袋に入れ直した。しばらく立ち上がらないまま、先程までの余韻に浸るその表情はとてつもなく幸せそうだった。
「(買って大正解だ……早くリンにも見せたいや)」
 無事に購入出来たのは勿論臨時収入のおかげだが、購入に踏み切ったもう一つの理由がリンである。今年の低気圧は例年より真っ当に仕事をしていて、空を覆う雲は中々晴れることを知らず雨もいつ来てもおかしくない天気が続いている。当然観測は出来ないし、もう彼女と二週間ほど会えていない。最後に会った夜の記憶は今も生々しく、レンの後悔をじくじくと攻め立てる。だからこそ次に会えた時、彼女を少しでも笑顔に出来ればいいと願わずにはいられない。その願望に自分の下心が混ざっていることは否定しないが。
 結局のところ、レンはリンの笑顔が見たくて、また一緒に星を見たいだけなのである。
 脳裏に青い瞳を輝かせるリンの笑顔を思い浮かべながら、夢心地でエスカレーターへ向かう。と、前方を歩いていた客が突然立ち止り、結果ふわふわと地に足着かないレンは見事に鼻から真正面にぶつかってしまった。
「あ、すみません大丈夫です、か……って、レン?」
「すみませ……って、リント?」
 反射で振り返った目の前の顔はよくよく見ればこの二カ月余りですっかり見慣れたクラスメイトで、レンは鼻を押さえながら目を見開いた。
 いつも制服姿しか見たことがない相手の私服というものは目をひくものだなあ、と思わずまじまじと見つめてしまう。普段の印象からすればやや地味とも思える、堅実というより無難な服装で小脇に本を抱えた格好は、レンの瞳に物珍しく映った。
「おお、レン。お前も休日は出かけるんだな。引きこもり予備軍だったらどうしようかと思ってたぜ」
「そりゃ、用事があれば出るだろ……って、お前なんでいきなり止まるんだよ、危ないだろが」
 いつものリントのペースに巻き込まれかけて、慌てて我に返る。ぶつけた鼻の痛みはもう無いが、売り場の棚に挟まれたこの場所は通り抜ける人も多い。それほど近付いているわけではなかった二人がぶつかる羽目になったのはリントが不意に立ち止まって向こうの棚を覗き込もうとしたからであり、そんな彼を見てなかったレンの不注意でもある。
 話がそこまで戻るとリントは困ったように眉を顰め、顎で先程彼が覗いていた棚の間を示す。そこはティーンズ向けの中でも女子を対象にした文庫を置いているところで、レンやリントのような男子には縁遠い空間でもある。
首を傾げつつもレンがその場所を覗き込むと、数人の女子が一塊になって本を見ているだけだった。しかし何かおかしい。何故外側の女子はあんな鋭い目で周囲を気にしているのか、派手な服装に似合わぬ地味なトートバックを抱えているのか、いわば違和感の固まりのような彼女らにレンの表情が先程のリントと同じように顰められた。
「レン、あれはヤバいぞ。店員を呼んできた方がいいかもしれん」
 抑えられた声量でリントが呻くように呟いた。その声にいつもの軽薄さはない。
 そしてレンも気付いた。彼女たちの口元に抑えきれない嘲笑が浮かんでいるのを。

「あいつら、今から万引きするつもりだ」

 その時、視線の先がにわかに騒がしくなった。二人が慌てて目を凝らすと、派手な女子たちの壁の内側で誰かが胸倉を掴まれているのが見えた。その子が付けている白いリボンが揺らめいて、隙間からちらちらと天井の光を反射した。
「******!」
「******!」
「******!」
 流石にここが書店であることを考慮してか、彼女たちの声は小さくてここまで届いてこない。しかしその勢いの荒々しさから彼女たちがひどく激昂していることは容易に分かった。それは行き場を失った苛立ちをただぶつけるだけの、稚拙でそれ故に大きな怒りの固まりだった。
おそらくあの白いリボンの子はあのグループに万引きを強要されて、それをこの土壇場で拒否したのだろう。部外者のレンは想像しか出来ないが、大きく外れてはいないと思う。
 このままでは彼女は望まない万引きの汚名を被ることになる。しかし部外者の自分に一体何が出来るというのだろう。下手に関われば彼女はもっと酷いことをやらされるかもしれない。
 助けたいと願う心の一方で、竦む足が震える腕が逸らしたい瞳が彼の臆病さが、レンをそこから動かさない。けれど、今すぐ何も見なかったふりをして立ち去ればいいと囁く悪魔の声に、囁くような抗いの声がレンをそこから動かさない。踏み込む勇気が持てない、かといって知らんぷりを決め込めない、どっちつかずの心が暴れ出しておかしくなりそうだ。
「(どうしたらいい……どうすればいい……!)」
 そんな彼の思考に歯止めをかけたのは。

「はい、どーん」

 背後からの強い衝撃と今ここの空気とはひどく不釣り合いな軽い擬音語だった。
 余りの不意打ちにレンの身体は対処できず、押された勢いのまま数歩先までよろけてそのまま派手な音を立てリノリウムの床へ倒れ込んだ。突然の乱入者に少女たちの視線が一斉にレンに集まる。
「おーおー、大丈夫かー。チラシに滑ってこけるなんてお前もあほだなあ」
 そこへ足跡の付いたチラシを持ってリントがレンの側までやってくる。その口調に何の陰りも無いのが、レンにはいっそ白々しい。少女たちは訝しげに二人を見ながらも傍観者に徹するつもりらしいが、追い立てるような棘のついた視線にレンは顔を上げられなかった。
「しっかし、チラシが床にほったらかしってこの店どうなってんだよ。店員呼んでクレームつけてやろうぜ、あとついでに慰謝料とさ」
 しかしリントのその言葉で少女たちの表情にさっと動揺が走るのを、そっと窺い見たレンにもはっきりと分かった。そして白いリボンをつけた子の表情がどんどん青ざめていくのも。
「******」
「******」
 あくまで興が削がれたということにしておきたい気だるげな声で合図をかけながら少女たちがその場を離れる。けれど怯えが入り混じった強がりの色まで隠すことは出来ていないようで、あっという間に走り去っていってしまった。そこに残ったのは、倒れたままのレンとチラシの足跡をはたいて落とすリントと棚のすぐ側で立ちすくむ白いリボンの少女だけだった。
「ほら、起き上がれるか、レン。ナイスこけっぷり」
「……こちとら心臓止まりかけたんですが」
「いやほらあれよ。まさかあそこまで盛大に自然と目を引いてくれるとは思わなかったぜ。お前役者の才能あるんじゃねえの」
「お前が予告もなくいきなり本気で突き飛ばすからだろ!」
 勢いよく立ち上がってそのまま彼の顎にアッパーをぶつけたレンが荒く息を吐き出す。強かに打ちつけたお腹がまだ痛い。痣にはなっていないだろうが、赤く腫れているだろう。
「ぐっ……中々良い拳持ってんじゃねーか」
「言ってろ」
 顎を押さえながら震える拳で親指を突き出してくるリントを冷たく見据えて、レンは近くに落とした自分の本を拾う。ビニール袋にこすれた跡がついた以外の外傷は見当たらなくて、ほっと息を漏らした。
「ところでそこの女子、大丈夫? 怪我とかしてない?」
 リントの声にはっと我に返る。そうだ、あの白いリボンの子のことをすっかり忘れていた。やり方に多大な不満はあれど結果的に彼女は万引きをせずにすんだ。それだけは不幸中の幸いだ。
 遠目でしか見えなかった彼女は一体どんな子なのだろうと振り返ったレンは、そのまま固まった。
 柔らかな色調のガーディガンとスカートを身に纏い白いリボンが頭上で揺れる。幼いながらも整った顔立ちで特に目を引く青く光る大きな瞳。そして今その表情は驚愕に強張り、瞳に強い恐怖の色を宿してレンを見つめていた。

「……レ、ン」

 その瞳が闇の中でもきらきらと輝くことを知っている。その声が煌びやかに言葉を紡ぐことを知っている。その指が星を繋いで星座を形作ることを、レンは誰よりもよく知っている。
 信じられない心持で、レンは口に出さずにはいられなかった。いつでも笑顔を焦がれてやまない少女の名前を。

「……リン?」

 彼女の反応はその場から踵を返して走り出すことで、そしてその寸前に瞳に走った動揺の影が何より雄弁に答えを告げていた。
「リン!」
 その小さな背中を慌てて追いかける。棚と人の間を抜け、通路を突っ切り、階段を駆け降りる。その小さな背中は意外と速く、レンは見失わないように必死に追いかける。吐き出す息に押されて、抱えたビニール袋ががさがさと耳障りな音を立てる。
 一階の入り口までついてようやくレンは彼女に追いつく。自動ドアの向こう側でいつの間にか降り出していた雨を呆然と眺めている、その腕をほとんど反射的にレンは掴んだ。
「離して!!」
 刹那、大きく振り解かれて自然に二人の視線が真正面から絡み合う。荒い呼吸でレンを睨みつけるように見つめるリンの目尻は微かに濡れていた。
 振り払われた腕をどうすることも出来ず、レンは彼女からの強い瞳を眺めていた。あの高台で見るのとは全く違う、深い悲哀を秘めた輝きから目を逸らせなかった。こんな表情、見たことがない。
 先に視線を外したのは、リンだった。
「……どうして、あそこにいるの。どうして、あんなことしたの。あんなところ、見られたくなかったのに」
 歯ぎしりをするような、それは強い拒絶を表す声だった。握りしめられた拳が、震える肩が、レンを近づけまいと、威嚇の唸りを上げているようで。
 それは、手負いの獣が魂だけは渡すまいと相手に投じる鳴き声によく似ていた。
「こんなところで会いたくなかった。こんな惨めな姿、見られたくなかった。あの高台で、会えるだけで良かったのに」
 レンは動けなかった。目の前の少女に怖気ついたのでもない。自身の行為を後悔しているわけがない。
『何も出来ないのなら、相手に関わるな』
フラッシュバックした記憶が、あの時の影が、彼女に重なって、強く彼を責め立てる。あの時何も出来なかった弱い自分の偶像が未だに心を縛り続ける。あの頃から何も変わっていない現実に、けれどレンは何も動かせなかった。
「……がっかりしたよね、失望したよね、判ってる。何も言わなくていい」
 リンの声が遠い。あの夜よりもっと彼女が離れていく。けれど、レンにはどうすることも叶わない。
「……ありがとう、ごめん、さよなら」
 そう言い残した堕ちる星の声も、どんどん遠ざかっていく背中も、全て雨の中に紛れて消えていくのを、レンはただ眺めていることしか出来なかった。




「レン! 良かった、ここにいたか」
 どれくらいそこにいたのだろう。呼ばれた声へぼんやりと顔を向けると、リントが自動ドアの向こう側から手を振っているのが見えた。抜き身の本を抱えたままの彼は外に出ようとしない。
「二人して速いからあっという間に見失って、探すの大変だったんだぞ。レンの知り合いだったんだな、あの子……ってあれ、あの子は?」
 矢継ぎ早に放たれるその言葉も首を動かしてリンを探すその動作もどこか空々しく感じて、レンの中に耐え切れない怒りのような澱んだ何かがふつふつと湧き上がってきた。
「……止めろよ」
 重く、レンは呟いた。
「なんであんなことしたんだよ。なんで関わろうとすんだよ。なんで俺を巻き込むんだよ。そんなに俺を馬鹿にしたいのか、俺を手下扱いしたいのかよ」
 口を開けるごとに声が止まらない。積もり積もってきた戸惑いが、困惑が、引け目が、全て怒りに変わっていく。それが相手にとって冤罪であったとしても、今のレンにはどうでもいいことだった。彼の脳裏にはリンの背中しかなかった。
 どうして、関わってしまったんだろう。どうして、声をかけてしまったんだろう。出会った記憶すら今の彼には恥ずべき過去で、己の決意を貫けなかった愚行としか思えなくて、それすら目を背けたくて、レンは目の前のクラスメイトにぶつけずにはいられなかった。
「もう、俺に関わるな。もう、俺に話しかけるな。お前にとって俺はただのクラスメイトだろ。代えなんかいくらでもいるんだから、俺に構うな、よ……!?」
 言葉はそこで途切れた。頬に強い衝撃を感じた時には、レンは既に濡れた地面に転がっていて。一拍遅れて荒い痛みが広がり、その余りの熱さにレンは顔を顰めた。
「言いたいことはそれだけか」
 拳を作ったまま言い放つリントの眼差しと声は、今まで聞いたことのないくらい静かで冷たいものだった。
「お前は、自己保身のためなら万引きは無視するべきだと、強要されててもやらされる奴が悪いんだと、そう言いたいんだな。そういう奴だったんだな」
 どこまでも冷静に紡がれる彼の声は、無表情で発せらせる分だけ内包している怒りが凄まじく、それを真正面から受けているレンの背中に言い知れぬ寒気が走った。
 いつもへらへらしていると思っていた。人をおちょくって遊ぶ姿しか見たことなかった。けれどその全てを裏切って、目の前に立つクラスメイトは何よりも恐ろしかった。
 呆然と見上げるだけのレンへ一瞥をくれると、リントは背中を向けて歩き出した。
「見損なったよ、お前」
 心底からの軽蔑の言葉をその場に残して、一度も振り返らないまま。




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