Pray-NOVEL3

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 日差しの眩しさを手で遮れば、驚くほど深い群青色に塗られた青空がどこまでもどこまでも高く広がっている。陰影のついた大きな真っ白の雲を突き抜けて、あの一番色が濃い天頂まで行けたらどれほど胸がすくことだろう。現実には太陽の強すぎる熱と光を受けて地面に伏せてやり過ごすことしか知らない、惨めな存在でいるしかないのだけれど。
 梅雨も明けて期末試験も終わった後の学校は、気の抜けた炭酸水のようだ。試験も返却も済んで消化授業をひたすら受けるのは気だるく、生徒もこの初夏のうだるような暑さに早々に白旗を上げるか、もうすぐ訪れる長期休暇の計画に頭が一杯で、誰もまともに聞いちゃいない。現に今このクラスも、大半の生徒が机に突っ伏して寝ているか、近くの友達と小声で話したり手紙を交換することに忙しい。
そんなクラスメイトの様子を見ることもなく眺めながら、ノートを取る気も起こらずシャーペンを徒に転がして、レンは何度目になるかわからない溜息をついた。
あの雨以来、リントとはすっかり疎遠になってしまっている。たまに彼がこちらに視線を寄越すことはあっても、こっちが無視していれば彼は何もなかったように別のグループにいつもの笑顔で入っていく。元々リントは社交性が高く、友人も多い。自分みたいな独り者に構っていた理由は分からないが、今の方が彼にとって良いに決まっている。こちらも怒ったり呆れたり、余計なエネルギーを使う必要が無くなって清々したくらいだ。
 そのはずなのに何故、こんなにも静けさに落ち着かなくなるのだろう。
「(今までずっと騒がしかったからだ。大丈夫、じきに慣れる)」
胸の内で呟いた言葉もどこか言い訳めいて聞こえて、レンはますますやりきれなくなる。
もう一つ、気にしてやまないのがリンのことだ。あの雨以来試験だのなんだのと忙しく、一度も高台へは行っていない。いや、行けないのだ。最近は望遠鏡を見ることすら辛く、ずっと押し入れに仕舞い込んだままになっている。
あの拒絶が、言葉が、何度も蘇ってはレンの視界を塞ぐ。彼女の笑顔を思い起こそうとしても、あの強く睨んだ瞳が脳裏に焼き付いて離れない。彼女を傷つけたのは自分だ。中途半端に関わって、人の大事なものに気づかないで、結果ひどく傷つけて。もう誰とも関わらないと決めたあの頃から実は自分は全く成長していないのだと、大切にしたかった笑顔一つ守れないのだと、彼を責め立てる声が止むことがない。
観測は一人でも出来る。けれどもう二度と隣にあの笑顔が無いのだと、突き付けられた現実にレンはどうしても足を高台へ向けることが出来なかった。
シャーペンをいじる手を止めて、ノートを閉じる。机に突っ伏して目を閉じれば瞼の裏に闇が見えた。
「(目が覚めた時には、全部夢になってたらいいのに)」
馬鹿げた妄想と知りつつ、そう願わずにはいられない自分を振り切るように、レンは闇の中に沈んでいった。

  ******


「おい、ちょっと付き合え」
その不機嫌極まる声を久々に聞いたのは、一学期の最終日だった。退屈な終業式を済ませ、悲喜こもごもの通知表が返却され、ホームルームも終わり、そこかしこでしばしの別れを惜しむ生徒が笑顔で話し込んでいる。部活に所属する面々はもう教室を飛び出していったが、帰宅部のレンは特に急ぐことも無く帰り支度をしていた。そこへ現れたクラスメイトに、レンは大きく目を開いた。
「……リント?」
 何故だ。圧倒的な疑問が脳を占めて止まない。彼と自分はもう関係のない存在になったのではなかったのか。相手の心境が分からず、レンは鞄に詰める手を止めて訝しげにリントを見上げた。
 彼の表情は声の印象通り眉間に皺を寄せて、不服を全身で示していた。あの雨の日のことをまだ怒っているのだろうか。仕方ないとはいえ、少々彼らしくもない気がする。
「お前にどんな予定があっても、どんな急用があっても、忘れろ。全てはこのことより勝らない」
「どんだけ重要案件なんだよ」
「例えお前が抵抗しても、俺にはお前を引きずっていく義務がある」
「俺の意見、全面無視かよ」
「むしろ何も言わず喋らず従え。下手なことは考えるな」
「おい俺はどこに売られるんだ!」
ずるい、とレンは思った。前はわずわらしくて仕方なかったやり取りが、今は何故こんなに言葉が溢れて止まらないのか。自分が必ず乗ってくると踏んで、わざとこんなやり方をしているのだとしたら彼はとんだ策士だ。
「ごちゃごちゃ言うな。行くぞ、レン」
踵を返すリントに、鞄のチャックを閉めて慌ててその背中を追う。久しぶりに呼ばれた自身の名前に、不思議と嫌悪感は湧かなかった。

 学校の最寄りのバス停から四十分余り。いつもより高い運賃を払って降りた矢先に見えたのは、白い壁面に直線を多用した巨大な建物。天辺に十字のマークが大きく描かれ、その建物の意義と役割を遠くにまで主張していた。この辺りで一番大きい市立病院である。
 普段健康ならば縁遠い場所に、レンは好奇心を刺激されてしまう。子供みたいだと思いつつも、周りを見回すことを止められなかった。
「こっちだ、迷うなよ」
 そんなレンを呆れながらも、リントは迷いのない足取りで受付を済まし、彼を引っ張ってエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まると同時に、しかめっ面でレンの方を向いた。
「いいか、俺としては不可解だし不愉快だし非常に納得いかないが、お前にこれからある人に会ってもらう。もし会った途端に拒否されても、それはお前が悪いのであってそいつを責めたりしたら許さんぞ、覚えとけ」
 なんとも威圧的で勝手甚だしい主張に、けれど本人は至って真面目に話すからレンは思わず頷く。そして今更、あることを聞きそびれていたことを思い出した。
「なあ、その『ある人』って、誰?」
 エレベーターが指定の階に止まり、扉が開く。奥から三番目の引き戸の取っ手に手をかけて、リントはようやくレンの問いに答えた。
「大睡眠時代プロジェクトの特別顧問だ」

広い室内にはベットが一つだけ置かれていて、そこに上半身だけ身を起こした人物がいるのがリントの背中越しに見えた。
 淡い水色のパジャマを着て、後ろに降ろしてある長い髪は癖毛なのかまとまり悪くふわふわと背中で跳ねている。触ったらとても柔らかそうだ。真っ白の肌が電灯の光に浮き上がって見えるが、綺麗というよりは血が通っているのか心配になってくる。歳はレンやリントとそう変わらないのに、幾分細い肩もそう思わせる一因になっているのは間違いない。
「レンカ」
 レンは目を剥いた。目の前の声の主の表情は窺い知れない。しかしこの声の柔らかさは一体どういうことか。クラスメイトと話している時の気さくな笑い声ともレンと話している時の意地悪い楽しげな声とも全く次元の異なる、まるで宝物を包み込むような甘く優しい響きだった。
 レンカと呼ばれた少女は一度その場で跳ね上がり、勢いよく振り向いてふにゃりと相好を崩した。
「リント」
 そこにだけ春がやってきたような、幸福に溢れた満面の笑顔だった。呼び返したその名を大事に胸へ仕舞うような、名を呼んでもらえるのが、呼べることが嬉しくてたまらないといった声で彼女は彼の名前で応えた。
 具合はどうか、今日は平気、などそんな親しげな会話を聞くともなしに眺めながら、レンはリントの不機嫌だった理由の一端を理解した。彼女はきっとリントの想い人だ。でなければあんな声で呼んだりするもんか。
 しかし、そんな彼女が会ったことも無い自分に会いたいというのは、一体どういうことなのだろうか。
「レンカ、こいつが例のレン。レン、こいつはレンカ。まあ……俺の幼馴染だ」
 やたら言いにくそうな文章を何度も練習したかのような滑らかさで、リントがそれぞれを紹介する。『例の』と聞いた辺りで、ベッドの少女――レンカが好奇心に満ちた眼差しでレンを見る。
「初めまして、レン君。レンカです。見苦しい格好でごめんね」
 最初の印象とは正反対なしっかりとした口調と真っ直ぐな瞳をもってレンに向き合うその姿は、凛と伸ばされた背筋と相成って意志の強さを感じさせた。
「あ、や、初めまして、レンです。こちらこそいきなり押しかけてすみません」
「タメ口でいいよ。それに無理を言ったのは私だから、こちらこそごめんね」
 ふんわりと笑顔で謝られると、逆にこっちが恐縮してしまう。リンとは系統を異とするがレンカも整った顔立ちをした可愛らしい少女なのである。お世辞にも女子に免疫があるとは言えないレンは、変に緊張している自分を自覚して恥ずかしくなった。
「リント、私喉乾いちゃった。何か買ってきてくれる?」
 小首を傾げて笑いかけたレンカへ、リントは何とも言いようのない表情で彼女を、そしてレンを見てから一つ頷いた。
「……分かった。なんかあればメールしろよ」
「うん」
 鞄から黒い財布と携帯を取り出してズボンのポケットへ突っ込むと、リントは引き戸の取っ手に手をかける。戸が閉まり切る寸前レンを一瞥した視線は明らかな殺気を放っていて、レンは思わず身震いした。
「そ、それで、俺に用ってなんですか?」
 先程の視線を振り払うようにレンがレンカの方を向くと、彼女は途端顔を強張らせて、何故か少し後ろ     
にずり下がる。すると一拍置いた後、はっと我に返った彼女は恥ずかしそうにまた少し前に出て位置を元
に戻した。
 その行動の意図が分からず首を傾げるレンに、レンカの頬の温度上昇は止まらない。
「ご、ごごごごめんなさい! 人と向き合うとつい……悪気はないの……!」
「え、や、別に、いいですけど」
 余りの委縮ぶりに、こちらの方がどう反応すればいいのか分からない。いつの間に掴んだのか、枕を身体の前で抱きしめて短い間隔で肩を震わすその姿に、さっきまでの凛とした雰囲気はすっかり霧散してしまっていた。あれが演技だとすれば、たいしたものだ。
 レンはかけていた丸椅子をベッドから少し離して座り直す。そうするとレンカの震えも徐々に収まり、おずおずとこちらを窺うようにして上目で見つめてきた。
「あ、ありがとう……ごめんなさい」
 どうやら彼女には謝り癖があるらしい。さっきから謝罪してばかりだ。
 苦笑いを返してふとレンカの抱える枕に視線が行く。白い枕はふかふかとしていて、彼女の胸から腹までをすっかり隠してしまえるだけの大きさだ。きっとあれに埋めて眠れば良い夢が見られるだろう。
「最近の病院は良い枕を使ってるんだなあ」
 思わず漏れたレンの言葉に、レンカは一度首を傾げレンの視線の先に気づき、合点がいったように目を開くとその枕を強く抱きしめた。
「これ、リントがくれたの。私が良い夢見れるようにって」
 頬を埋める枕の感触にもその時の記憶にも浸るように、幸せな記憶を掘り起こして零れる笑みは、その時の彼女の喜びがそのまま伝わってくるようだ。レンもついつられて頬が緩む。
「そういえば前そんな話してました。『俺はいつか目を開けたまま眠れる技術を体得してやるのさ!』って」
「なにそれ面白そう!」
「他にも色々ありますよ、知りたいですか?」
「是非!」
 リントの学校での話を重ねていくごとに、レンカの瞳が真っ直ぐに光を反射していき、その輝きにレンは気圧されそうになる。深海で煌めく泡沫のような光が次々と浮かんでは消え、その流れは止むことがない。それはまさしく恋をしている少女の瞳で、そこに映るのはレンであってもレンではなかった。
 こんな風に。レンは淡く思う。あの高台で話す時、あの子にこんな瞳で見つめられたなら、きっと自分は空を突き抜けて星だって掴めるだろう。
 リンに会いたい。それはまるで深い洞窟の最奥にある透き通った泉のようにレンの心の底で眠っていて、決して枯れることも汚れることもない、彼の根幹から湧き出す一番の願いだった。
 けれど。あの雨の日の記憶が蘇る。臆病な心が囁いてくる。お前は彼女に何が出来るというのか、と。また彼女を傷つけたら。そう考える度、悪い未来ばかりが脳裏で花火のように弾けて彼の芯を揺さぶって止まない。会いたい気持ちと同じくらい、レンは彼女に会わない方がいいと思わずにはいられなかった。
「……レンさん?」
 現実に引っ張る声にレンが慌てて顔を上げると、レンカが不思議そうにこちらを見ていた。その視線に続きを乞う色が見え隠れしているのに気付いて、レンはいつの間にか話を止めて自分の思考に集中していたことを自覚し頬が熱を持つ。初対面の人の前でとんだ失礼だ。
「ご、ごめんなさい! ちょっと考え事してたもので……」
「い、いえ! それは全然……むしろ私がおねだりしてた立場ですから!」
 二人揃ってあわあわと忙しく謝罪を重ねて、不意に同時に黙り込み広い室内の中に静寂が広がる。出会ったばかりの者同士によく訪れる、互いの出方を窺うような沈黙は妙に肌にこそばゆく、心臓にかかる焦燥の重圧が鼓動を速めていく。
 リントの話の続きを話すべきだろうか。しかしこの沈黙の中、走り抜けていくタイミングを上手く捕まえることは至難の技で、元々話術に自信のないレンにはどだい無茶なことだった。
「あ、あの……っ!」
 先に捕まえたのはレンカだった。枕を抱えたまま林檎もかくやというほど真っ赤に頬を染めて、それでもレンを見る瞳は真っ直ぐだった。
「あの、その、つかぬことを窺いますが」
「はい」
「レンさんは、彼女さんとまだ喧嘩中なんですか?」
「は?」
 思考が止まる、というのはこういうことだろう。耳から入ってきた言葉が脳で上手く処理されず、一瞬何を言われたのか理解が出来なかった。どこからその架空の人物は生まれたんだろう。
「私で良かったら相談に乗りましょうか? 私も女の子ですし、一応」
「いやいやいやいや、ちょっと待って下さい。俺に彼女なんていませんよ?」
 拳を握り鼻息荒く、これから来るであろう甘いのろけに身構えてたレンカの意気込みは、レンの一言でひびが入る。首を傾げて、一つ瞬きをして、不思議そうな顔をして、レンに質問を投げる。
「え、でもこの間リントが『レンが彼女と喧嘩して腹いせに八つ当たりされたからぼこった』って言ってましたよ?」
「……それ、婉曲解説です。俺とその子はそういう仲じゃ……」
 言いかけて、ふと止まる。では一体どういう仲だったのだろう。友達というには互いのことを何も知らない、知り合いというにはあの空気はひどく心地よく、仲間というには心の距離が今は遠い。あの高台だけで出会う不思議な少女。それでもあの雨の日出会った彼女は紛れもなく、傷も痛みも持った人間だった。そしてそんなリンを嫌いになったかと言われれば、おそらく。
「……嫌い、になりきれないんです。けど俺が一緒にいれば、彼女はもっと傷つくんじゃないか。俺が側にいたら、辛い思いをさせてしまうんじゃないか。それが怖いから、彼女に会えないんです」
 あの笑顔を見ていたい。けれど、自分がいることであの笑顔が消えるのなら、いっそ会えないままでいい。自分の我儘で彼女を傷つけるのは、エゴに他ならない。
 会いたいのも、会いたくないのも、深く深く潜って考えればどれも一つの答えに結びついていた。
 リンには、笑顔でいてほしい。それだけは願っても許されるのだろうか。
「レンさん、私少し分かるかもしれません」
 つ、と顔を上げたレンカの瞳がレンを捉えて、ゆっくりと瞬きをする。その声からはさっきまでの熱に浮かされたような興奮は消え失せ、代わりに穏やかな光が一つ二つ煌めいていた。
「大事なんですね、その子のことが本当に。大好きなんですね、一緒にいないことを選べるくらい。分かります、嘘じゃないです」
 レンカの声は水のようだ。紡ぐ言葉に耳を傾ければ、心に、四肢に、指先に、清い流れが満ちていく。手の平に掬い上げた水へ口をつけた時に感じる、深い安心感に似た何かでじんわりと包まれるような、そんな声をしていた。

「でも、ダメです。そのままは絶対ダメなんです」

 それはきっと水が急流を滑り落ちた時の音に似ていた。レンが見つめる先で、レンカはきゅっと唇を噤み、大きく息を吐き出して、形の良い眉をきりっと上げてレンに向き直った。
「大事だから、守りたいから。そんな思いを抱えているだけでは伝わらないんです。これ以上辛い思いをしてほしくないからと一人で離れたら、自分も相手もぼろぼろになってしまうんです」
 滑らかとは言い難い、けれど決して下手な慰めではない血の通った言葉にレンは知らず知らず引き込まれていた。それは本をなぞるだけでは決して得られない、魂からの声だった。
「だから、大事なら手を伸ばしてください。守りたいなら、声にしてあげてください。一緒にいたいと願うなら、相手の声も聞いてあげてください。独りよがりはただの我儘です」
 許されるのだろうか、リンの側にいたいと願うことは。傷つけるのが怖くともその手を握りたいと、その笑顔を一番近くで見ていたいのだと、声に出すことは罪ではないのだろうか。
 けれど、恐怖も後悔も絶望も、全てを越えた先に二人で笑い合う未来を夢見れるのだとしたら。レンにとって迷う理由など無いはずだ。
 しかしレンは、首を振った。きっとそれは自分に過ぎた願いだから。
「駄目です、きっと俺は彼女を傷つけずにはいられない」
「……どうしても?」
「俺は、そういう人間ですから」
 レンの中の過去が回り出す、歯車の軋みに似た悲鳴を上げて。その叫びが止むことは決してない。
「昔、友達がクラスのあるグループに虐められたんです。本当なら助けに行くのが友達ですよね。けれど俺、怖かったんです。自分がいじめの対象になることもだけど、何より余計なことをして友達へのいじめがもっと酷くなるんじゃないかって」
「だから、俺逃げたんです。そのいじめから、そのいじめっ子たちから、その友達から。友達はしばらくして転校することになったんです、親の都合だと何も知らない教師は説明してました。」
「その日でした。その友達に呼ばれて俺、謝ろうと思ってたんです。そしたら友達は俺の顔を見るなりこう言ったんです。
『お前、どうして逃げたんだよ。どうして無視したんだよ。俺達、友達じゃねーかよ』
『お前みたいな友達見捨てて平気な奴に、友達なんて作る資格ねーよ』」
 あの時の眼差しが今も忘れられない。他人の瞳ばかり見る癖はこの時からついた。敵意は瞳に一番明確に表われると、目の裏にこびりついて離れない眼光がそれを教えてくれるから。
「以来、その友達とは一度も会ってません」
 レンは笑おうとした。胸を締め付けられるような息苦しさも、膿んだ傷をナイフで削り取られるような痛みも、他人に見せてはいけない。それはレンの傷であり痛みだからだ。
 しかし、胸の圧迫感は増すばかりでちっとも収まってくれない。息が吸えず、レンは胸を掻き毟った。笛のような浅い音しか漏れず、それがますます彼を苦しめる。
 レンカが身を起こしてこちらへ駆け寄ろうとする。眩暈がしてレンは座っていることすら出来なくなる。
そんな時。

「はい、どーん」

 レンを襲ったのは、背後からの突然の衝撃とその場に似合わぬ気の抜けた擬音語だった。
椅子からずり落ちそうになっていた彼の身体はひとまず中心に収まり、不意打ちの後で油断した気管が緩んで、待ち構えていた酸素が一斉に入り込んでくる勢いにレンは思わず咳き込んだ。
「相変わらず、ごっちゃごっちゃと煩い奴だなあ、お前は。あ、レンカ、ただいま」
「……リント、おかえり。もう少し優しくでも良かった気が……」
「あーだめだめ。こういう理屈捏ねまくって自滅するタイプは物理攻撃が一番なんだって」
「……だからって、加減ってもんがあるだろお前!!」
 先程の衝撃から立ち直り、背後の犯人にアッパーを決めようと伸ばした拳はしかし力なく、リントの顎に間抜けな音を立てて突いただけだった。
「おいおい、レン。本屋で向かってきたアッパーはどうしたんだよ、こんなの蚊が止まるぞ」
「うるさい、この物理馬鹿。お前みたいなのがいるから暴力がこの世から無くならないんだ」
「それを言うなら、お前みたいなのがいるから世界がややこしくなったんだぞ。この理屈馬鹿」
「ペンは剣より強しって知ってるか?」
「ペン軸、一刀両断出来るから剣の方が強いに決まってるじゃねーか」
「ふ、二人とも……喧嘩は……」
「大体なんだよお前。人の情報勝手に婉曲して言いふらしやがって。それを受け取った人が恥かくじゃねーか」
「そっちこそなんだよみみっちい。喧嘩したなら早く仲直りすればいいじゃねーか。それをぐちぐちぐちぐちいつまでも悩みやがって、しつこい通り越して根暗って言うんだよそういうの」
「ね……! お前こそ何が『大睡眠時代プロジェクト』だよ。結局好きな子に枕あげたかっただけだろ!」
「な……! お前こそ彼女に逃げられたくらいであんなめそめそしやがって。女々しいんだよ!」
「なんだと!」
「やるか!」

「喧嘩は! 止めなさい!!」

 白い病室内に爆流のような声が響き渡り、その波をもろに被った二人は、目を瞬いてその声の主を呆然とした心持で見た。おそらく滅多に荒げることのないだろう彼女にもその声の余波は届き、肩で荒く息をして二人を見て眉を吊り上げる。
「リント! 弱ってる相手に暴力はダメ! レン君! 売り言葉に買い言葉しちゃダメ! 二人ともわかった!?」
『……はい』
 ここまで的確にかつ冷静な分析で叱られれば、二人とも素直に折れるしかなかった。

「レンカは昔、ひどいいじめに遭ってたんだ」
 不意にリントはぽつりと、そんなことを呟いた。
 レンカに別れを告げて病院を後にしたのはついさっき。いつの間にか太陽も傾き、日差しの強さも仄かに和らいでいる。それでもずっと冷房の利いた部屋にいた身にはまだまだ充分な暑さだが。
 角度を落とした陽光がバスの中に降り注ぎ、陰影をつけて床に不可思議な模様を形作る。二人の他には、こっくりこっくりと舟を漕いで夢の世界へ向かおうとしている小柄な老人一人。エンジン音が響く車内で、けれどリントの声はとてもよく聞こえた。
「原因は知らない、ただ俺が気付いた時にはもうあいつはぼろぼろだった。部屋の隅っこに蹲って目閉じて耳塞いで『止めて止めて』って繰り返すだけの人形みたいになってた」
 淡々と、淡々と。感情のこもらぬ声で話すのは、それが既に終わったことだからか、それとも余計な感傷を入れないようにするためか。あるいはそのどちらともかもしれなかった。
「なんで何も言わなかったのかって責めたよ。自分の不甲斐無さも上乗せして、あいつにぶつけたんだよ。そしたらあいつ、何て言ったと思う?」
 最後の問いはけれどレンに向けられてはいない。バスの窓から遠くを眺めるその瞳にレンは映らない。
彼が話しかけているのは、レンであってレンではない。
「『だって、リント君怒るでしょう、それから泣くでしょう? そんなリント君見たくなかったから』」
 息が詰まる。それはさっき感じた荒々しいものではなく、芯の臓が共鳴するような身震いからくるものだ。そんな切実な思いを、レンは誰より良く知っている。
「馬鹿じゃねえの。なんで、なんで自分が一番辛いくせに、他の奴のことなんか気にすんだよ。自分が倒れたら元も子もねーだろ。本末転倒もいいとこだろ」
 雲に太陽が隠れて、影がリントの表情を隠す。吐き捨てるような言葉は、誰よりも彼の心に刺さっていったのだろう。力無い罵倒の中に微かな湿り気があったことを、けれどレンは何も見ていないふりをした。
「レンカのびびりはその時ついちまったもんだ。俺が側にいれば幾分かましみたいだが、四六時中一緒にいるわけにもいかねーし。だからお前に会いたいって言い出した時は驚いたよ。や、でも多分そうなるような予感はしてたんだ。お前はレンカに似てるから」
 ふっとリントはレンに視線を向ける。戻ってきたんだな、と感じた。彼は過去のレンカの部屋から今このバスの中まで長い旅をして、傷と痛みを抱えたまま今に戻ってきたんだなと、レンは自然とそう思った。

「レン、断言してやる。お前は、良い奴だよ」

 バスの停留所を知らせるチャイムの音がする。エンジンの震えが座席ごとに伝わる。雲から顔を出した太陽が窓越しにレンの瞳へ光を投げかけて、彼は胸の中で固く縛られていた鎖が音を立てて崩れていく幻想を見た。
「お前は他人を想っていいし、他人を救える。ていうか誰の許可もいらねーよ。お前はお前が思うように動けばいい」
 一本、二本。消えていく鎖の中で一つだけ残った歯車が、弱々しい声で囁く。それでもお前は誰かを傷つける。お前の自分勝手が他人を傷つけないはずないんだ。
「なあ、レン。それでも許可許可五月蠅い奴に何て言えばいいか教えてやる」
 そんなレンを見透かしたように、リントは笑った。いつもの意地悪い笑顔で、レンに言った。

「『俺は、あいつの味方だ。それ以上何の理由が必要なんだ』」

 胸の中の歯車がひび割れていく。その後に、もうあの忌まわしい声は聞こえなかった。




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