はなくらべ

薔薇と百合~白い記憶の中に~


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二人切り裂く花はどこに咲いたのだろう…
残酷な程に美しく、悲しい程に可憐に咲き誇り
散っていったあの花が、今も僕の心を締め付け香り続ける。あの花は――

あれはいつの頃だったか、僕も彼女もまだ幼かった頃。
まるで隠れんぼみたいに垣根の中にしゃがみこんで、君は一人泣いていた。
夜更けだというのに雨で薄い霧が立ち篭めて街灯の燈を飲み込んで辺は少し明るみを帯び、彼女の大きな瞳に溜められた涙もキラキラと光って綺麗だった。
噎せ返る花の香りに囲まれて、君は眉を下げて大きな瞳を細めて可憐に微笑みながら涙声で僕に言う。
『約束よ?』――と。
あの日の君との思い出が、記憶の片隅に根付いて今も忘れられない――



西陽が射し込み赤い絨毯の敷かれた廊下が鮮明な朱色に染まる。ふと窓から下を見下ろすと、数名の女生徒の姿が目に留まった。
深い葡萄酒の様な赤紫色で統一されたセーラー服には、所々に白い刺繍でラインや薔薇の模様が施され、どこからどう見ても清楚なお嬢様という雰囲気を醸し出している。同じ色の赤紫のセーラー服の筈なのに、そこにいる数名に妙な違和感を覚えた。どこか形が違う様な…しかし二階からでは、目を凝らさなければ何が違うかまで分からず僕は足を止め食い入るように外を覗き込んだ。あれは――
「おい、蓮!何見ているんだ?」
いきなり背後から声を掛けられ思わず体を小さく跳ね上がらせた僕の右肩は、ずっしりとした重みに抑え付けられた。その声の主の方に目だけ動かしてみれば、僕と同じ涅色の学ラン姿が目に入り小さく息を吐く。
「玖夫。驚かすなよ…。」
僕の肩に肘を乗せるようにして窓の外へと目を向けた級友は、そんな僕に反応を返すでも無く面白いものを見付けたとばかりに目を丸くする。
「おっ!もしや蓮様ともあろう方が、他校の女子生徒に目移りして御出ででしたか?」
態とらしく敬語を使い、茶化す様な口調で問われ僕は乾いた笑い声を上げた。
「ははは…まさか。そんな訳がないだろう?」
先程、僕が違和感を覚えたのは他校の生徒がそこにいた事が理由だった。
僕の通う白薔薇学園と白百合学園は姉妹校で、同じ赤紫のセーラー服でもこちらはツーピース、あちらはワンピース型になっていて所々装飾品も違う。一見は似ているので、間違う事も多いのだがそこには大きな格差がある。
確か明日から数日間は両校の交流を深める会が開かれるらしいので、その打ち合わせにでも来たのだろう。
呆れた様にそう言って見せれば、玖夫はそれを面白がってゆっくりと大きく頷くような動作をする。
「いーや、分かる。たまには他の娘と気楽に付き合ってみたいのだろ?いつもあの白薔薇様といたらそうもなるさ。」
一人で納得したように勝手に話を進める玖夫を放っておけばまだまだ話は続きそうなので、静止しようと口を開く。だが僕の口が音を発する前に、玖夫の言葉を途切れさせた。
「お…っと、噂をすれば…」
いつの間にか視線を廊下の向こうに移した彼は、先程までの声よりトーンを落としポツリと呟く様に声を落とす。それに反応して、僕もそちらへと顔を向けた。
視線の先には数名の生徒が朱い絨毯の脇に並ぶように立ち、皆が皆同じ方向へと視線を向けている。
全ての視線の集まるそこには、一人の女生徒がいた。
そこにいる女生徒と同じ制服を着ているにも関わらず、一人どこか違う凛とした空気を彼女は纏っていた。
前から見ると顎のラインで切り揃えられた髪は、二段で切り分けられていて長い所は後ろで結われていた。その髪は、色素が薄く光の角度では琥珀色に輝いて見えた。香りだつような微笑を浮かべ愛想よく立ち振舞ってはいるが、滲み出る威厳と風格は正に高嶺の花という言葉がお似合いだ。
周りの者から恍惚と尊敬の眼差しを向けられる少女こそ、玖夫の言う白薔薇様、その人だ。
そんな彼女の大きな瞳が僕を捉えると、それまでの空気と一変してとても無邪気で屈託の無い笑みを零した。
「蓮!」
上品な可愛らしい声で僕の名を呼ぶ彼女に、僕も目を細めて微笑み返すと愛おしむ様にその名を呼んだ。
「凛。」
お互いに歩を進めるが、彼女の方が幾分か早足だった様で数歩進んだ場所で立ち止まった。僕と共に歩を進めた玖夫は、彼女が来るなり深々と腰を折り曲げ会釈をする。
「ご機嫌麗しゅう凛様」
「ご機嫌よう玖夫さん」
凛はそれに頭を軽く下げながら、スカートの端を持って膝を曲げた。
「二人でこんな所で何をしてらしたんです?」
指で軽く自らの顎に触れながら、不思議そうに小首を傾げて問う凛に、玖夫はこれは面白い事を思い付いたとばかりに悪戯に笑みを零す。その後の行動はなんとなく予測出来たが、敢えて止めはしなかった。
「見て下さいよ、凛様!蓮の奴、あちらを見ていたんですよ?」
玖夫がそう言いながら窓の外を指差すので、凛はそのままそちらへと視線を向ける。視界に入る女生徒の姿に、凛は少し早めの瞬きをした後に大きな瞳をまん丸くした。数秒の間を空けた後、凛は顎に当てていた手を動かして今度は唇に触れるとクスクスと笑い声を零す。
「ふふふ…もしかして玖夫さんは、蓮があの娘たちに現を抜かしていたと言いたいんですの?冗談がお上手ね。」
表情も声も笑っているのに、細められた瞳の奥は鋭く光っていた。
「蓮に限ってそんな事が、ある訳ないじゃありませんの!」
その瞳に捉えられた玖夫が生唾を飲み込み、笑みが消える。そんな彼に凛は念を押すようにこう言った。

「だって、蓮は私の愛する方ですのよ?」

――そう、彼女は僕の婚約者だ。
親同士が決めた仲ではあるけれど、俗に言う政略結婚という訳では無い。
家柄の差で言うならば彼女の方が頭一つ分飛び抜けて高いのだが、僕の父と彼女の父親が学生時代からの級友で仲が良かったというのが理由だ。生まれた子供もまた同い年という事で、親交はより深まったらしい。
だから幼い頃の記憶には必ず彼女がいたし、当たり前の様にこの歳になるまで毎日の様に共にいた。物心つく頃には結婚する事は既に決められていたけれど、何の疑問も持った事は無かった。
僕も彼女も決められた人生だと苦に思った事も無く、いつしか互いの中に恋心が芽生えている事も自覚して生きてきた。時折、位の差が邪魔をする時もあるけれど、僕は彼女を愛している。

「だから玖夫さんも、気軽に触れないで下さいね?」
ニコリと可愛らしく微笑みながら、その言葉にはまるで薔薇のような棘があった。玖夫は苦笑いを浮かべると、助け舟を出す様に僕へと視線を送る。こうなる事は予想出来ただろうに、白薔薇様の棘に態々刺されに行くのだから呆れた級友だと僕は肩を上げて話題を変えた。
「そう言えば凛。母が良質な紅茶の葉を手に入れたから君に披露したい様だけど、今日うちに来ないかい?」
顔を覗きこむ様に問えば、凛は先程まで放っていた威圧にも似た空気を一掃し無邪気に両手の指の腹を胸の前で合わせて見せた。
「まあ、本当!是非、行きたいわ蓮!」
零れ落ちるような満面の笑みを咲かせた彼女は、もう玖夫のことなど見えていないようで、それを良しとした彼は片手を上げるとそそくさとその場から退散した。
強く気高く無邪気な白薔薇の様な彼女は、常に笑顔を絶やさずに咲き誇る。僕にしか見せないその姿はとても可愛らしく美しくもあるが、その根底に眠る脆い程の弱さを僕は知っている。記憶の片隅に残る涙を流してばかりの幼い頃の彼女の事を――



光沢のある木彫りの椅子に置かれた、陶器の白いカップに紅茶を注ぐと湯気と共にその匂いが立ち込めた。
「うん…いい香り…」
凛はそれを堪能する様にうっとりとした声を溢すと、カップを手に取り口を付けた。
「とても美味しいわ。おば様が選ぶ茶葉は、いつも本当に素晴らしい物ばかりね!」
満悦した顔で目の前に座る僕を見るので、僕も自然と口元が緩む。
「はは!君にそう言って貰えると、母もきっと鼻が高いよ!」
本当は母自身が凛に披露したかったのだろうけど、生憎の急用で出掛けてしまったらしい。そんな事もあり本来なら客間に通すのだが、彼女の要望で僕の部屋で過ごす事になった。
使用人が紅茶のポットを持って部屋を出て行くのを見届けると、リンは何の気なしに部屋の中を見回した。
そんな彼女の視線が引き出し付の木の棚で止まり、目を真ん丸くさせる。
「蓮?あれはなあに?」
凛の指差した先を見て、僕はああと思い出した様に棚の上に置かれたそれに手を伸ばす。
それは液体の入った小瓶で、小さな穴の空いた蓋からは管が伸び、先にはポンプがついていた。
「わあ!香水?綺麗な色ね!」
中に入った液体は深紅の薔薇の色をした香水で、茶葉と共に手に入れた品のひとつだった。
「薔薇の花弁を使って作られた物らしいよ?」
「そうなの!素敵ね…」
魅入る様にそれを眺める彼女が可愛らしくて、僕は立ち上がると彼女に差し出す。
「つけてみるかい?」
「ええ!」
瞳を輝かせながら大きく頷くと、彼女は左の手の平を僕に向ける様に上げた。その手首に向けてポンプを押すと、霧状になったそれが辺りに漂い彼女に纏う。
上品で高級な深紅の薔薇の香りは、彼女にとてもよくあっていてまだどこか幼さの残る凛をとても大人びて見せた。
思わず胸が高鳴る。愛しい人と二人きり、手を伸ばせば触れられる程すぐ側に彼女がいる。
華奢な肩に、ほんのりと桃色に染まる頬、下ろされた髪、紅をさした様に色付いた唇に…触れてみたいという邪な感情がその匂いに刺激され、息を飲んだ。
「蓮、どうかした?」
凛は僕がそんな事を考えているだなんて、微塵も思わぬ無垢な瞳で僕の顔を覗きこむ。
そんな感情を悟られぬ様に、その瞳を見つめ返して微笑んで見せた。
「いや、とても君によく似合う香りだと思って。」
それを素直に受け止めると、凛は機嫌が良さそうに笑みを溢す。

白い薔薇は純潔の象徴。
凛がそう呼ばれる理由のひとつ。汚れをしらない、美しい白薔薇。
結婚前の男女は、触れあう事など汚らわしいと彼女は思っている。
花言葉にもある『私はあなたにふさわしい』と、そんな風に彼女が思えなくては駄目なのだ。
彼女という白薔薇を摘むには、僕はまだ未熟過ぎる…。
誰よりも近くにいるけれど、誰よりも遠い高嶺に咲く気高い花。
いつか僕よりも相応しい人が現れて、摘み取ってしまうのではないのかと…何処かで僕は焦燥感を抱いていた。

「そうだ…凛が以前読みたいと言っていた本。書斎にあるから取りに行って来るよ。」
平常心を取り繕って僕は、凛に待っていてと促すと部屋を後にする。本能と理性が揺れ動き穏やかではいられずに、そのままあの場にいるのに耐え兼ねて頭を冷やしたかったのが本音だった。
茶色の絨毯が敷かれた廊下には、珍しく使用人の姿が見当たらない。一人になりたかった僕にはそれは好都合で、静かな廊下を敢えてゆっくりと歩を進めながら息を吸い込んだ。
書斎の入り口に差し掛かった、その時――リリリリ…!と甲高い音が廊下に響き渡った。
使用人は出払っているのか取る者のいない電話は、ただただけたたましい音を止めない。
只でさえ落ち着かない僕の気持ちを煽るその音が不快に思えて、早く消してしまいたくて僕は思わず受話器を上げた。
「はい、もしもし…鏡音ですが。」
『……えっ…』
微かに聞こえた吐息にも似た声は、女性のものの様だった。少し返答を待ってみるが、電話の向こうの人物は戸惑っているのか声を発しない。
「どちら様ですか?」
痺れを切らして僕からそう促すと、一瞬の間を置いて声が返ってきた。
『…蓮…』
その声は酷く聞き馴染んだ声によく似ていて、反射的にその名を呼びそうになりハッとした。そんな訳がある筈無い事は誰よりも、僕が知っている。似ているのだ彼女の声に、僕の部屋にいる凛の声に。
「そ…そうですが…」
『ああ…やっぱり蓮様ですのね!』
鈴が鳴る様な可憐な声は凛のそれによく似ているがどこか違う。それなのに、まるで親しい者を呼ぶかの様に発せられた僕の名に酷く戸惑って目を見開く。
「貴女はいったい…?」
ぎこちなく問う僕の問いに、電話の向こうの少女が何か言おうと息を吸い込んだ――瞬間、僕の耳から受話器が外れた。正確に言うなら手から無理やり取り上げられたのだ。突然の事態に振り返ると、そこには微笑を浮かべた僕の婚約者が既に受話器を耳につけながら立っていた。
「蓮に何の用かしら?」
上品な笑顔を崩さぬままで問い掛けるその声はとても穏やかだったけれど、どこか威圧感が感じ取れた。
「貴女、彼が私の婚約者だとご存じで、こんな電話を掛けておいでなの?ふふ、なんて身の程知らずなのかしら。」
受話器の向こうの女性がどんな反応を見せているのか僕には分からなかったが、そんな事などお構いなしに凛は間髪いれずに言葉を続けた。
「蓮に会いたいのなら、私程の身分になってからお越しなさいな。それでは…」
凛はそこまで言うと向こうの言い分など聞く余地も無く、ゆっくりと電話を切った。ほんの数秒の沈黙が、僕らの間に流れる。彼女が纏う空気はいつになく重々しくて、思わず僕は息を飲んだ。
凛は電話を見つめながら、ふうと小さく溜め息を漏らして沈黙を破ると首を傾げて見せた。
「困った人だわ。きっと白百合学園の娘ね。昼間、蓮が見ていたから勘違いでもなさったのかしら?」
まるで独り言の様に呟いた後に、僕の方へと顔を向けた凛の表情はいつもと変わらぬ笑みを咲かせていた。
「遅かったから迎えに来てしまったの。あら、本は無事に見付かったのね!」
まるで何事も無かったかの様に、僕の手に持たれた本を見て彼女は明瞭な声を上げる。
「あ…ああ。」
「それなら早く部屋に戻りましょう!早く読みたいわ!」
戸惑う僕をよそに、彼女は踵を返すと待ちきれないとばかりに廊下を先に歩き出した。
僕もそれに歯切れの悪い返事をしながら歩を進める。
数歩前を行く、その小さな背中を酷く遠く感じて目を凝らす。
感情の起伏などそこには無いかの様にいつも毅然と笑みを崩さず、悠然とした態度で渡り歩く。誰も彼女の感情にすら触れられぬ、揺れ動かす事すら許されない…そんな孤高に咲き誇る花そのもの。
記憶の片隅にある涙を流す小さな頃の彼女の姿とは、結び付かない程に強くなってしまったのだろうか。
それが今の凛なのだから、それでよいのかもしれないが…少しだけ寂しくもある。
だがそんなものは僕の我儘だと…自嘲すると、自分を奮い立たせ歩を早め凛の横へと並んだ。追いついた僕の顔を覗き込んで微笑むその顔を、独占出来るのだからいいじゃないかと自分を励ましながら。
『…蓮…』
何故かふと耳に先程の少女の声が蘇った――あの電話はいったい誰だったのだろう?



翌日の学園内はいつにも増して賑やかで、そして華やかだった。
男子生徒の涅色の学ランは、普段の倍の数程いる赤紫のセーラー服の中では目立たない。
白百合学園の生徒の家柄はこの学園ほど高くはないが、女子校特有の淑やかで清楚な雰囲気がそこにはある。白薔薇の高貴な空気と混ざり、いつもと違う空気が学園内に漂っていた。
玖夫を始めとする男子生徒はそんな彼女たちの空気に飲まれ、どこか酔いしれたしまりの無い顔をしている。
交流会は琴や華道などあくまで女子生徒が中心なので、彼らが彼女たちと関わる時間などはなかなか無いのだが…。女子校の生徒との密かな恋をする青春を夢見て、態々その機を伺っている様だった。
そんな彼らを尻目に僕は一人、帰路につく事にした。
凛はさすが名家の娘という事もあり、昔からそれなりの習い事は全て嗜んでいる。そんな事から色んな交流の場に顔を出して欲しいと駆り出され、今日は忙しそうだった。いつもならば彼女と共に帰るのだけど、交流会の間は別々に帰ることになっていたので、僕には居残る理由が無かったのだ。
門まで伸びる石畳で舗装された道へと足を踏み出すと、夏も終わりの頃の強い陽射しが容赦なく照り付け思わず目が眩み手で陽を避ける。
そんな細める視界の中に、見慣れた赤紫色が石畳の道を反れて左の垣根の方へ消えていくのが見えた。交流会の最中に一人でこんな場所にいるその姿が何故か気になり、何気無しにそちらへと歩を進める。
舗装された道から少し外れたそこには、背丈以上の垣根の壁に囲われた庭園があった。入口として掲げられた薔薇のアーチを潜り中へ入ると、切り揃えられた生垣が外から内部を見せぬように曲がりくねった通路を作り先へと促す。その道を進み生垣を抜けたそこは、広場になっていた。
中央に設置された石造りの噴水からは穏やかに水が流れ、それを囲む様に一面が白い薔薇の花で彩られている。そこには目まぐるしい純白が広がるばかりで、鮮明な赤紫の色など存在せずにその代わりに目についたのは一本の木の根元に咲く他とは異なる花だった。
まるでラッパの様な形をしたその花に何の気なしに近付いて、膝を折り曲げて覗き込む。
「タカサゴユリかな…?」
そう、そこに咲いていたのは一本の百合の花だった。
この学園には咲いていないはずのそれは、どこかから種子が舞って来てここに根を張ったのだろうか?
誰にも気付かれぬ事無く、こんなにも立派に美しく咲き誇る姿は何だかとても健気で愛らしい。
「こんな場所に咲いてしまったら、すぐに摘み取られてしまうよ?」
花に話しかけて見たところで答えなんて返って来ないのだけど、何故だか放っておけなかったのだ。
それはふと蘇った小さな頃の記憶。昔、凛の家の広い庭の片隅で、こんな風に薔薇の中に一本百合が咲いていたことがあった。
そこで彼女が泣いていた。まるでその百合の末路に自分を重ね、いつか摘まれる事を恐れるようにその場所で泣いていたんだ。守ってあげなければならないと、子供ながらに思った瞬間でもあった。
思えばあの時から、僕は君に恋していたのかもしれないね…そんな事を思って目を細めた。
その視界の端――噴水の向こうにひらりと靡く赤紫の色を捉え、ふいに顔を上げる。そんな視線に入って来たのは、驚いた様に目を丸くして僕を見つめる、よく見知った人物だった。
「なんだ、さっきここに入って来たのは君だったのか!凛…」
陽射しを浴びた琥珀の髪に赤紫のセーラー服。何の疑いも持たずにその名を呼んだ瞬間、――何かが違う、そんな感覚に囚われた。
「――蓮…!」
凛の口から発せられた僕の名は、どこか甘く溶ける吐息の様に耳に届く。
僕を真っ直ぐに捉えたその瞳がまるで懐かしい者を見るかの様に涙で潤んでいて、いつもの凛とした気高さよりも可憐な儚さが垣間見えて戸惑いが隠せなかった。そんな困惑する僕の方へ駆け寄って来た彼女は、立ち止まる事無く僕の胸に飛び込んで来る。
あまりに突然の行動に、心臓が大きく高鳴った。
何が起こっているのか頭が上手く働かない。
だって彼女がこんな風に、僕に触れて来た事は今まで一度だって無いのだから。
「り、凛!どうしたんだい?」
動揺して上擦る声でそう問えば、彼女はそれには答える代わりに僕の胸元をそっと握り締めた。どうしたらいいのか、自分の手を動かしたその時――
「先生ご機嫌よう。」
垣根の向こう側で聞こえた少女の声に、僕はハッとした様に目を見開く。
それはよく聞き慣れた気高い澄んだ声。
――凛の声だった。
混乱した僕は、勢いよく腕の中の少女の両肩を掴み引き離す。
「君は…誰なんだ!?」
動揺して言葉を詰まらす僕の様子に、目の前の少女は悪戯にクスリと目を細めて見せるとゆったりした口調でこう言った。
「私が誰か知りたいのなら…、今晩また此処にお越しになって下さいませ。」
そう言いながら、僕の体から離れた少女は踵を返しまた噴水の向こうへと走り出す。
「ちょっと…まっ…!」
困惑する頭で必死に呼び止め様と手を伸ばすが、その手は虚しく空を切り少女の姿は垣根の向こうに消えて行った。
それとほぼ同時に、背後で足音が聞こえた。
「蓮!」
呼ばれた自らの名に心臓が大きく波打ち、息を飲んだ。ぎこちなく振り返ったその目が捉えたのは、紛れも無い僕の婚約者の姿だった。
「やっぱり此処にいたのね。探してしまったわ!」
見慣れた上品で無邪気な笑顔には、先程までの歪さは何一つ感じられず、まるで狐につままれた気分になる。
「凛…今、ここに来たのだよね?」
「そうよ?そんなに驚いた顔して、どうかしたの?」
平静を装って問い掛ける僕に、不思議な顔をして凛は首を傾けた。その顔に嘘を付いている様子は無い。
「そう…か…」
それならば先程まで、此処にいたあの娘はいったい誰だというのだろうか?
よくよくあの後ろ姿を思い出して見れば、あの制服はワンピース型で、後ろで結ばれた長い髪も無く…凛とは別人だと分かるのに、それにしては似過ぎていた。
「あら…?」
戸惑う僕を気に掛けていた彼女は、僕の後ろに何かを見付け目を丸くさせた。
「こんな所に、百合が咲いているわ。」
その言葉に僕は必死に取り繕った笑顔を作り、反応を返す。
「あ…ああ、そうなんだ。」
そちらへ視線を送った僕の耳に入って来たのは、いつもより低い彼女の声。
「やだわ。折角の薔薇園が台無しね!早く摘み取ってもらわなきゃ。」
崩さぬ笑顔の裏に嫌悪を隠したその言葉は、記憶の片隅に残る彼女の姿とはかけ離れすぎていて鼓動が落ち着き無く鳴り響いて息苦しい。
先程の少女の姿が脳内を過ぎり、触れられた場所が熱を帯びる。
薔薇の中にいる筈なのに、此処に香るのは何故か違う花の香り…――歯車が小さく狂い出していた。



夜の帳が降りる頃、月灯りに照らされた学園の庭園へと僕は足を踏み入れた。
自分の歩く音が嫌に響く程に静寂に包まれた垣根の中をひた歩きながら、後ろめたい気持ちが生まれる。凛では無い女の人に会う為に、こんな場所にいるなんて僕はいったい何をしているのだろうか。
それに本当に彼女はいるのだろうか?凛にあまりに似過ぎている少女は、夏の終りを名残惜しむ太陽が見せた白昼夢だったんじゃないだろうか…?そんな馬鹿げた考えは、垣根が途絶えたその場所ですぐに打ち消された。
白い薔薇に囲まれた広場の噴水の脇に佇む、少女の姿がそこにはあったからだ。
少女は僕の足音で既に気付いていたのか、待ち構えていた様にこちらを向けて両手を前にして目を細めた。
「こんばんは。お待ちしておりましたわ、蓮様。」
口の端を上げながら、まるで懐かしむ様に呼ばれた自らの名に居心地の悪さを感じて僕は眉を潜める。
月明かりを透かした様な顎のラインで切り揃えられた髪は、凛のそれより色素が薄くより金に近く煌めく。鏡に映した様に逆に分けられた前髪も、身に纏う空気や雰囲気も全てが凛とは別人だと標しているのに、その顔はやはり彼女そのもので困惑する。
「君は誰なんだ?僕の事を…知っているのか?」
訝しげに問い掛ける僕を見てどこか妖艶に微笑んだ少女は、ゆっくり視線を下げて頷く。
「はい。良く存じておりますわ。だって私達は小さな頃に会った事があるんですのよ?」
そんな事を言われた所でいくら思い出そうとしてみても、凛に瓜二つの知り合いなど記憶の中にはいない。その顔を思い出そうとすれば、そこには――
「記憶を辿っても…あの娘の姿しか思い出せないのでしょう?」
まるで僕の考えを見透かしたかの様な言葉に、心臓は大きく波打った。覗き込む様に視線だけ上げた大きな瞳に捕らえられ、身動きが取れない僕を嘲笑うかの様に少女はより口の端を上げた。
「ねえ、蓮様?…本当に貴方の記憶にいるのは、凛様なのですか?」
ゆったりした少女の口調に反して心臓は忙しなく動きを早め、僕はそれを必死に抑えようと声を上げる。
「な…何を言っているんだ!当たり前だろう!!」
疑う必要なんて無い筈なのに、頭が警告する様にズキズキ痛んで息苦しい。そんな筈無い…そんな事ある筈が無い!と、その先を考える事を拒否する僕を少女は許さない。
「どうしたんですか?何故そんなに動揺しているのです?」
一歩づつ歩を進めて僕の側へと近付いて来ながら、彼女は追い詰めるように言葉を続けた。
「ああ、そうですよね。だって貴方は、私をあの娘と間違えたんですものね?」
言い返そうと口を開くが、上手く言葉にならない。一体何にそんなに焦りを覚えるのか、自分自身さえ分からない。
「ねえ、蓮様?」
悪戯に笑いながら僕の名を呼んだ少女は、ふと視線を僕から外して香りだつような甘い声を紡ぐ。
「薔薇の中に、百合が咲くだなんて…まるで此処はあの場所の様ではございませんか?」
少女の視線の先には、未だ誰にも手折られぬ事無く咲き誇る一本の百合の姿。
どうして君がそんな事を知っているんだと過ぎった言葉は、自らの脳裏に浮かんだ考えにかき消された。
だけど…そんな事…!!この後に及んで、自らの考えを打ち消そうとする僕を、少女はまた距離を縮めた上で、今一度その瞳で僕を捕られ逃れられぬ一言を発した。
「約束覚えていらっしゃいますか?」
心臓が痛いくらいに握り締められ、僕は目を見開いた。
それは僕の中にある疑いを確信に迫らせるには、充分過ぎる一言だった。
脳裏に焼き付いた…夜更けの雨に秘められた全て。
涙を流す小さな頃の少女、百合を愛さなくなった彼女、結び付かない記憶…どこかで感じ続けた違和感の、その全てが導き出す答えは一つしかない。
「僕が約束を交わしたのは……君だというのか?」
目の前の少女はそんな僕の言葉に、大きな瞳をまん丸くしてゆっくりと頷いた。
「ああ…覚えていて下さったのですね!嬉しい…!」
感極まった様な声を上げた少女は、そのまま距離を無くすかの様に僕の胸へと飛び込んで来る。噎せ返るほどの甘い香りに、僕を見上げる涙に揺れる大きな瞳、あどけなさの残る可憐な笑み…それは正に記憶の中にある、少女そのもの。心臓が高鳴って、まとまらない思考回路に目眩がする。
「蓮様…約束通り、貴方は私を見付けて下さったのですね。」
ドクンとまた大きく波打つ鼓動と、声が僕の記憶を呼び起こす。そう、あの時少女は言っていた『必ずまた私を見付けてね蓮…約束よ?』と。それは凛がこんな弱い自分もいるのだと、忘れないでという心の音では無いかとずっと思い続けて来た。そんな彼女を守りたくて、僕はずっと側にいようと決めたのに…それが凛では無いのなら。
「どうして貴方の横にいるのは、あの娘なのでしょうか?」
また少女は僕の考えを読み取り、声に出して訴え掛ける。
「ねえ蓮様?本当にあの娘じゃ無くてはいけないのですか?」
まるで絡みつくように囁かれる甘い声が、僕の動揺を煽る。
「な…にを…言ってるんだ?」
「だって、貴方はどこかであの娘の事を高嶺の花だと思っているんじゃありませんか?」
近くにいても触れられず、誰よりも遠くに感じるそんな存在…そう続けられた言葉の羅列は、僕がどこかで思い続ける不安や焦りそのものだった。
「どうして君にそんな事が分かるんだ…?」
眉を寄せてそう問う僕に、急に少女は悲しげに笑みを崩す。
「分かりますわ。だって私にとってあの娘はそんな存在ですもの。」
「君はいったい…?」
少女はそれには答えずに頭を僕の肩に埋めて、僕の胸元に手を当てて直接体に響かせる。
「蓮様、知っていますか?神威家のご長男が、あの娘の事をいたくお気に召しているそうですわ?」
突然告げられた思いもよらぬ名に、僕は息を飲んだ。
華道の名家の神威家は僕の家よりも格段に家柄が良く、そんな方が本当に凛を欲すれば、僕との情や口約束なんて無意味になる。
「ああ…可哀想な蓮様。そんな事になってしまえば、愛しいあの娘に…一生…触れることも出来ないのですね?」
心臓が握りつぶされる様な感覚。考えない様にしてきた事を、少女はいとも容易く揺れ動かす。
少女は僕の首を抱き締める様に手を回し、ほんの数センチの距離だけ残し僕の瞳を見つめてまた可憐に笑みを零す。
「ねえ蓮様。私なら貴方を分かってあげられますわ。…同じ顔をしているのなら、私でも構わないでしょう?」
立ち篭める甘い香りが、零れ落ちる言葉が、切なげに潤んだ瞳が僕の理性を崩していく。それはまるで悪魔の囁きに堕ちていく様に、僕は少女の腰に腕を回しぎこちなく抱き締め返す。
「蓮様…私の事も、リンとお呼び下さいな…」
そんな言葉を合図に、少女は爪先を伸ばしてゆっくりと数センチの距離を埋めていく。もう、僕は何も考えられず、その甘い…甘い百合の香りに酔いしれていった――

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