NOVEL

Jack and Jill


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 ――割れ鍋に閉じ蓋、右足と左足。この手を取る君は、どこにいる?


 ******


  枯れ木から新芽が顔を出し、地面から緑が首をもたげ、残雪がその身を透明に変えて、まどろみを覚ますような陽光が森の中を照らし出す。
人の手が入らずとも足で踏み固められた小道を、ゆったりと行く影一つ。
 滑らかに光を受け流す金色の髪をリボンでくくり、仕立ての良い服はそのまま姿勢の良さにも結びつく。まだあどけない眼差しは青よりも深い色をして、道の先を見つめ続ける。歳若い一人の少年だ。
 若木のような両腕で肉の薄い胸に持つのは、くすんだ木目な一つのフィドル。年月を重ねてくたびれたのか一寸の休息にと彼の胸でもたれているようにも見えるそれは、幼さの残る彼とはどこかちぐはぐに見える。
  一旦立ち止まり、息を整える。森の中は季節の変わり目を迎えて空気の色さえ一新したように、まだ慣れない肺がその変化に戸惑いを隠せない。深く吸い込めば甘やかに広がるようで、もう一度吸い込んでおく。
 胸の愛器を抱え直して少年はまた歩を進める。その足取りはゆったりとしていて、しかし何かから逃げるようでもあった。





 一面の畑に種が撒かれ、伸びよ増えよと声を揃え、雪解け水が水路を満たして、来る芽吹きの季節を祝福するような風が森の中にも吹き抜ける。
 自然の摂理に沿うように人の手が入った小道を、軽やかに駆ける影一つ。
 眩く光を跳ね返す蜂蜜色の髪をふわりと跳ねさせ、華やかにふっくら膨らんだ晴れ着が足取りに合わせて空気を纏う。青より澄んだ瞳で前のみを見据える眼差しは、いささかの厳しさを併せ持つ。歳若い一人の少女だ。
 程良く色のついた腕で摘むのは、縁に赤の刺繍を施した白い前掛けと赤いスカート。万一にでも裾が地面につかぬようにと持ち上げる手は彼女にしては丁寧で、しかし他の人から見れば乱雑な動作に違いない。
 一旦立ち止まり、息を整える。小鳥の声が聞こえて空を見上げるが、明るく照らす青空のせいで頭上を通り過ぎる小鳥が黒で塗り潰されてしまう。模様も形もはっきりしないもどかしさに地団駄を踏みそうで、けれどそんな元気もない。
 スカートを持ち直して少女はまた足を速める。その足音はどこまでも軽やかで、しかし何かを振り切るようでもあった。


 ******


 冬の終わりと春の始まりを祝う祭りは隣り合う二つの村が合同で行う。遠い先祖がこの土地を切り開いた時からの決まりごとに従って、春を告げる花が満開を迎えた日に人びとの笑顔も花開いた。
 歳の離れた二人の兄とやってきた少年はこの土地の者でありながら村の人ではない。ここ一帯を治める領主の末息子として生を受けて幾年。けれどこの祭りを目にするのは初めてだった。
 老いも若きも飲み食い、踊り歌う。振る舞われる料理は冬の間の惨めさを忘れるかのごとく、注がれていく酒は豊かな恵みを象徴するかのごとく、その身でその心で思う存分堪能していく。陽気に奏でる楽器の音に合わせて円を組んで踊り、喉を揺らして祝いの歌を一団で紡いでいく。目にする光景のどこかしこも喜びに満ち満ちているかのような空間の中で、少年だけが一人居心地悪く与えられた席に座っていた。
 幼年から毎年のようにここを訪れ当然のように村人の中に溶け込む長兄と、華やかに着飾った女達に囲まれて甘い笑みを浮かべる次兄を眺めて、もぞもぞと身体を動かすことしか出来ない我が身が不甲斐なくもこればかりはどうしようもない。
 はあ、と吐き出す息の反動で高く澄み渡る空を見上げて、胸に抱いた愛器を抱え直す。悠然と広がる青色にちっぽけな自分を重ねて、その歴然の差にまた溜息一つ。
 陰鬱な吐息を咎める者はおらず、むしろ少年の周りにはぽっかり綺麗な空円が描かれて、誰もその境界線を越えようとしない。喋りがとりわけ上手いわけでもないが見目が悪いわけでもない彼に話しかける者がいないのは、誰もが初めてやってきたこの領主の末息子を手に余らせているからだと聞かなくとも分かる。
 そして、もう一つ。
 「(やっぱり、あれが失敗だったんだろうなあ)」
 一人ごちる少年の脳裏に少し前の記憶がちらつく。兄達に請われ村人に期待され、このフィドルに弓を滑らせた刹那の出来事。
 祭りで一番初めに奏でる曲は領主かその家族が演奏する決まりがあるらしい。ここ数年は少年の姉が担当していたが今年は体調を崩し、代わりとばかりに厄介事を押し付けられたのが末息子だった。幾度となく断りの旨を伝えてもちっとも取り合わない兄達に辟易し、いっそどうにでもなれという気持ちが一抹無かったわけではない。けれどまさかあれほどのことが起こるとは予想もしなかった。
 少年が渋々愛器を奏で出すと、踊り出すはずの村人たちの足が一斉にもつれた。向こうで酒を飲み交わしていた数人がふんぞり返って倒れた。料理を運ぶ大柄な主婦と酒を目一杯持つ小柄な亭主が音に気を取られて正面衝突した。走り回っていた子供はこけて、ついでに犬に吠えられた。
 少年の持つフィドルは古いからか昔の持ち主が整備を怠ったかあるいは諸々の要因か、恐ろしく調子っぱずれな音しか出さない。そして役目を押し付けることしか考えていなかった兄達は、不幸にもそのことをこの瞬間初めて知ったのである。
 即座に演奏を止められ、取り繕うように次の曲を演奏し始めた村長の苦々しい作り笑いに今更良心が痛む。奇妙な音を出すフィドルを抱えたままの少年に好奇の目は向けても近寄ろうとする勇敢さを持った村人はいないらしく、それからずっと少年はここに座っていることしか出来なかったのである。
 けれど、もうそろそろ限界だ。空は晴れてるし、風は気持ちいいし、久々の外の空気は草の芽生える匂いで溢れている。祭りも最高潮の盛り上がりで、兄達はこちらに背中を向けたまま。
 故に、椅子から立ち上がり近くの林から森へ入っていった小柄な若者がいたことを、その場にいた誰もが知る由もなかった。





 さほど深くない森を抜けた先で、合流を果たして大きさを増した風がどこまでも緩やかに続く丘の上を眩く駆け抜けていく。黒色の地面を覆い尽くしてやまない緑の絨毯が幾重にも連なって、遠く冠雪を抱く山脈を見はるかすほどに続いていた。
 少女は大きく伸びをすると、スカートをふんわりと広げて草原の中に座り込む。そして側にある適当な野草や花を取り分け、適当な大きさに茎をちぎり取り、一定の長さに揃えていく。一つ気合いを入れ直し、茎を折り曲げ挿し込み合わせ編み、結び目一つ出来るごとに彼女の鼻息は凄みを増していく。
 しかしいくつも連ねて進めていくごとに、何故か隙間は広がり、茎が解れ、花びらまで儚く散っていく。気づけば花はばらばらと膝の上に散らばって、少女の手の中には折れた茎の残骸がくたりと身を横たえるのみ。
 一寸押し黙って頭を抱え、天を仰いで悲鳴に似た苛立ちの声を上げたのは、彼女の心境からすれば致し方ないことだった。
 綺麗に櫛を通された髪を指に絡めて、掻き毟りたい衝動をすんでのところで抑えれば、柔らかな陽光に蜂蜜色の光が揺れる。青色吐息をついて手を下ろせば、人より少し短めの指とパンの生地みたいにふっくらとした掌にますます自己嫌悪が加速する。この不器用は天性のものなれど、もう少し見目良い手が欲しかった。
 もう一度吐き出した溜息に合わせて力を抜けば、背中から新芽の絨毯に身体を埋めた。
 「(どうしてこう、上手くいかないんだろう)」
 一人ごちる少女の脳裏に過去へ遡った記憶がちらつく。友達に誘われ悪友にからかわれ、音に身を任せた後の出来事。
 春の訪れを祝う祭りでは村人たちは様々に踊り歌う。一見自由なそれはしかし曲によって簡単な振り付けと踊る相手が決まってくる。それは生まれてから親に学び大人を見て周りを真似て自然と身に付くもの、のはずなのだ。
 彼女だって何の努力もしていないわけではない。むしろ踊ることに関しては少女は村一番の頑張り屋である。しかし流れ星が自分の行先を決められないように、彼女の足も何故か音に合わせるといつも頓珍漢な方向へ行ってしまう。彼女の靴が奏でるリズムは他の人より明らかに速く、それが彼女の焦りを駆り立て元に戻そうとするも慌ててもつれた足がますますヘンテコなリズムを奏で始めてしまう。独演であればそれはそれで趣があるのかもしれないが、少女が踊るのは村人たちと共に円を成して踊るステップだ。周りと揃っていなければ失敗どころか邪魔な存在でしかない。はみ出して戻れない彼女はそのまま踊りが終わるまで円の外で待つ他ないのだ。
 
 今年も例年に漏れず円から飛び出した少女は、周りからの失望の視線に耐え切れずに花冠のためにと言い訳のようにここまで走ってきた。祭りの間、乙女が想いを寄せる男性へ渡すという風習に使われる手製の花冠は、当日までに拵えるのが決まりごとだったが、踊りの練習に熱心かつひどい不器用さんな彼女が出来ているはずもなく、今日を迎えてしまっていた。
 十四を迎える今年から増えた義務に少女は頭をまた抱えたくてたまらない。友達の誰もかれもが浮かれたように声を潜ませて噂話に花を咲かせ、手際良く編んでいく手元を見つめる視線は真剣のごとく鋭く触れればこちらが怪我をしてしまいそうなほどの熱の入れようで、それも少女には理解しがたい。愛だの恋だのまだ彼女にとってその甘さは絵空事であり、家族同然に過ごしてきた村の中で特別な感情が芽生えるわけがなかった。
 誰に渡すでもなくただ周りに同調するためだけに作られる花冠に一体どんな意味があるというのだろう。
 視界を埋め尽くす空はどこまでも高く澄んだ青色で、気紛れに移動していく雲を眺めていたら自分の身体もぷかぷか浮き上がっていくような錯覚を覚えて目を閉じた。
 もういっそ祭りが終わるまでここにいようかな。瞼裏の闇に意識が落ちようとしたその時。

 「♪~♪~♪~」

 少女は寝転んだままずっこけそうになった。
演奏と呼ぶには余りにも調子っぱずれな音で、練習と言えば余りにも自由自在な音程で。一体なんだこれは。今まで聞いたことも無いような不思議な音色に彼女は思わず身を起こして、その摩訶不思議な出所へ振り向くと。

頭上に広がる空の青より深い色をした眼差しが、彼女の瞳を見つけてかちりと視線が噛み合った。


 ******


 少年はフィドルを構えたまま動けなくなってしまった。視線の先には大きな瞳がこちらを物珍しそうに眺めてきて、彼の身体を硬直させる。予想だにしなかった先客の存在に少年は弦に当てたままの弓すら弾けず、心底困り果ててどうにか口の端を上げて不器用な笑みを浮かべることで精一杯だった。
 「あの、どう、も」
 もごもごと口の中で未成熟な言葉が蠢き、語尾は空気に溶ける前に消化不良のまま喉の奥へ引っ込んだような息とも音ともつかぬ声に、少年を見つめたまま少女は大きな瞳をぱちくりと二度三度瞬かせた。
 好奇心の固まりをそのままぶつけられているような彼女の視線に、背中を向けるわけにもいかず少年はとりあえず肩から愛器を降ろしてそのまま膝を草原に置く。目線の高さが同じになるだけでも幾分か落ち着きが戻るのを感じた。
 揃いの高さになって改めて彼女を眺めると思いもかけず整った容貌に、胸の鼓動が一つ音を立てる。まだ幼さの残る面差しは、これからもっと美しくなるのだろうと思わずにはいられない。それに先程から少年を捕らえて離さない瞳は頭上に広がる空の青より澄んだ色をしていて、その奥の煌めきに不思議な引力すら感じて彼は我知らず少女と見つめ合っていたことに気づき、慌てて熱の宿った顔を明後日の方に向けた。
 祭りの喧騒は遠く、この丘陵を占めるのは流れていく大気の震えと草が揺らめくさざめきのみ。沈黙の気まずさもその間を風が吹けば、空気が孕む陽と草の薫りに心が緩む。
 「君は、祭りに行かなくてもいいの?」
 緩んだ心の隙間から零れ出た純粋な疑問の危うさに少年が気づいたのは、少女が不意に体を硬直させて瞼を伏せて視線を彼から外した後だった。思いもかけないその反応に後悔と自省と謝罪が一瞬のうちに脳内で荒れ狂い、しかし口からは、あ、とも、う、とも言葉の断片とも言えぬ呻き声が漏れるのみ。こんな時二人の兄達なら大仰な手振り付きの謝辞と気取ったお世辞を乗せて相手を笑顔に出来るのだろう。自分の迂闊さと愚鈍さにまた自己嫌悪が加速した。
 「花冠、作らないといけないから」
 だからだろう、語句を選ぶような慎重さで返された言葉に少年は自分勝手な安堵を感じてしまった。
 頭を振ってそれを放ってから少女の回りに目を向けると、確かに長さを揃えられた草花が草原の上に寝そべるように散らばっている。遠くを眺めればこの丘にもあちらこちらで春の花が咲き盛っているのがわかる。しかし少年はだからこそ浮かんだ疑問を秘めることが出来なかった。
 「それって、今じゃないと駄目なの?」
 その言葉が彼女にもたらした効果は絶大だった。
 少女は俯かせていた顔を跳ね上げ、その勢いのまま少年の瞳をまじまじと見つめ、更に髪の先から靴の先まで何度も行き来するように丹念に視線でなぞる。それは最早観察と言っても過言ではない大きく見開かれた瞳に、妙に落ち着かない心持で少年は彼女の好奇心を受け止めるしかなかった。
 そしてその青より澄んだ瞳が彼の瞳をもう一度見つめ返して、抑えきれない驚きと好奇心を隠そうともしないで少女が少年へ向けた言葉は、疑問ではなく確認の類だった。

 「あなた、もしかして例の怪音末息子?」





 少女が発した二つ名に少年は最初ぽかんと何を指されたのかと呆け、次第に彼の表情が複雑さを増していったのはその意味が彼の頭で結びついたからだろう。
 「……え、と、怪音はともかく、領主の末息子ってところは否定しないよ」
 やがて少年がなんと言えばいいのか途方に暮れた顔をして、こちらの出方を窺う様にそろりそろりと言葉を紡いだ。さっきから迷子みたいな顔ばかりしてるなあこの人と少女は頭の片隅でそんなことを思った。
 いやそれよりも。少女は今更ながら思い至った常識に今度はこちらがそろりそろりと少年の顔を窺った。
 「あの……失礼なこと言っちゃって、ごめんなさい?」
 語尾が思わず上がったのは謝罪することに対してではない。畏まった言葉使いをし始めた途端に拭いようのない違和感に襲われたからである。
 初めから見知らぬ顔に村の者ではないと確信していた。今自分が着ているとっておきの晴れ着より丁寧に仕立てられた服もそれを自然に着こなす品の良さも、一夕一朝で纏えるものではない。村の男衆に比べてずっと線の細い身体は、苦労を知らず育ったと言い出さんばかりの頼りなさ。こんなひょろくては畑仕事など耐えられないだろう。なにより彼が先程奏でた調子っぱずれな音が、友達から興奮気味に教えられた珍事と一致した。
 しかし、実際に対面している今、彼女の中でどうしてもこの気弱な少年と『領主の末息子』という身分がいまいち結びつかないのだ。もっと偉そうにしたりすればいいのにと思いつつ、そんな姿を想像ですら描くことが出来ない。友達から聞かされた『フィドルを弾くふてぶてしい表情』も『一人すまして動かないふんぞり返った態度』も、今なら先入観から来る勘違いだろうと一蹴出来る。少なくともこの少年からは彼の兄達が纏う意識的な気さくさも嘘くさい笑顔の欠片もこれっぽっちも感じなかった。
 いつの間にか思考を巡らせることに夢中になっていたからだろう。ぼんやりと視界に映していた彼が傍にフィドルを置いて、足元の花をいくつか拾い上げそのまま編み出したことに、彼女は咄嗟に反応出来なかった。
 「え、え……ちょっ!」
 思わず飛び出した言葉の切っ先は見事に受け流されて、少年は黙々と茎を曲げ花を編み込み輪を形作っていく。その意外な手際の良さに、なおも言い募ろうとした少女も次第に引き込まれていった。男にしては細く長い指が片時も止まらず花冠を生み出そうとする姿は、彼の白い肌に見合った顔立ちと相成ってとても映えて見える。僅かに伏せられた長い睫の影が青より深い瞳をより色濃くさせて、その深淵に似た煌めきに少女は知らず知らずの内に吸い込まれそうになった。
 まさか男性に対して、この言葉を実感する日が来るとは思わなかった。
 
 「(ああ、綺麗だなあ)」
  
 「出来た!」
 少年の満足げな呟きに、少女は我に返り一瞬のち慌てて思考を抑え込む。頬の熱を振り払うように彼の手元へ視線を向けると、そこには素晴らしく整った花冠があった。
 先程まで自分の回りで力無く萎れていたものと同じとは到底思えない。あるべきところにきちんと収まったように色とりどりの花が艶良く並び、丁寧に紡がれた編み目すら美しい。もしかすると友達たちが我先にと作り上げた花冠より良いのではないのかと、間の抜けた尊敬の念を抱くほどにそれは見事な出来だった。
 半ば呆然とした心持で受け取った花冠を反転させたり回してみたり細部を眺めたりしてみる。どこからどれだけ目を凝らしても全く歪みの無い真円で、一体どうすればこんな美しい曲線を作れるんだとむしろ恨みがましい気持ちまで湧き上がってくる。
 「えっと、もしかして編み方に決まりとか……あった?」
 けれどこちらの心境などいざ知らず、少年の声が余りにも不安に満ち満ちていたから、彼女はまだ自分が礼を告げていないことに気付いた。
 「ううん違うの。あまりにも上手だから驚いたのよ。領主の息子って凄いのねえ」
 「僕は別に……あと領主の息子は多分関係ないと思う」
 改めて聴くと少年はとても綺麗な声をしていて、それなのにどうして紡ぐ言葉はこんなに自信無く低空飛行をしているみたいに話すのか、少女には理解出来なかった。『領主は上に立つ者だから』などという一般論を説きたいわけではない。けれどここまで委縮しなくてもいいはずだ。身分差を意識して見下す態度は癇に障るが、度の過ぎた謙遜も相手に良い印象を与えないことをこの時少女は初めて知った。
 「ねえ、今くらい偉ぶってもいいのよ?」
 彼女が言わずにはいられないといった風に吐き出した言葉が少年には唐突だったらしい。ぱちくりと彼の瞳が瞬いて、小首を傾げて少女を見つめる動作がまるで幼い子供のようで、うっかり彼女の頬が緩んだ。
 「『凄いねえ』って言われたら『ふふん凄いだろ』くらい言ってもいいのよ。少なくとも私ならそうするわ」
 瞬きが止まり、大きく見開かれた青より深い瞳にくっきりと映り込むような笑顔で、にっこりと少女は笑った。心の底から溢れてくるような、澄んだ笑顔だった。
 「ありがとう、本当に困ってたの。助かっちゃった」





 制御出来ない熱の奔流が身体の奥から湧き上がってくるのを感じた。その勢いに押されるように心臓が早鐘を打ち始める。目の前の余りにも眩い笑顔に、少年は息すら出来ない錯覚に陥った。
 「だ、で、ど、どういたし、まして……」
 喉を言葉が滑らかに通っていかない。つっかえつっかえ吐き出した返礼は、久々の感触がこそばゆくて照れくさかった。少女の笑顔を真っ直ぐ見つめ返すことが出来ず、顔を俯かせて頬の熱に耐える。
 「もう、だから偉そうにしてればいいのに」
 呆れたように笑みを含むその声さえ、ちかちかと視界に星が見えるようで。胸に抱えたフィドルを意味もなく強く抱きしめた。
 花冠を抱えて嬉しそうにくるくると踊る彼女を眺めるように見惚れてしまう。赤く染められたスカートがふわりと膨らんで、腰に巻いたリボンの端がなびいて彼女の軌跡をなぞる。蜂蜜色の髪がきらきら光を零して、そこに野草で編んだ花冠はさぞ映えるだろう。
 「そ、そういえばその花冠どうするの? 僕が編んで問題なかった?」
  少女を見ていた自分がとてつもなく恥ずかしくて思わず口に出した問いへ、少女は今更気付いたと言わんばかりに足を止めて彼を見て少しだけ困ったなと言わんばかりに形の良い眉を下げた。
 「それなんだけどね。作った花冠は、好きな男の人にあげる決まりなんだ。でもこんな綺麗に作ってくれたのに、勿体無いなあ」
  言い重ねる言葉は心底つまらなさそうで、彼女がこの風習を良く思っていないことが窺い知れる。そして最後の溜息にも似た呟きが裏表のない本音だと伝わって、じわりじわりと少年の胸に花のような歓喜が込み上げてくる。
 「そういえば、なんかお礼したんだけどさ、何がいい?」
  くるりと振り向いてにこりと微笑んだその表情さえ眩しくて。出来ることなんてほんの少ししかないんだけどね、と続けた苦笑すら少女の魅力は増すばかりで。熱に浮かされたような思考で、気付けば少年は我知らず無意識のまま彼女に答えを返していた。 

「その花冠を、君のものにしてください」

 少女の動きがぴたり、と止まった。数瞬のちに夕焼けより紅く染め上がった彼女の頬を見て、少年はようやく自分がとんでもないことをのたまったことに気づいて、彼の頬も負けず劣らず熱を放射した。
 「あ、や、ち、そ、べ、ちが、そういう意味じゃなくて、あの、だから、そのまま、え、あの」
 混乱の極みでどうにかこうにか弁解を図ろうと出す言葉は悉く本来の仕事を放棄して、意味の掴めぬ切れ端の羅列ばかりが続くだけで。それがますます少年の焦りを駆り立てて、遂には言葉が喉でがんじがらめになって口をぱくぱく開閉することしか出来なくなった。
 けれど何を言い訳したいのだろう。熱で回らなくなった思考の片隅で冷静にそう思う自分がいた。彼女の笑顔は素敵で、踊る足は軽やかで、声は綺麗で、花冠を前に笑う姿は可憐で。ああ、もう何がなんだか。
 「……ありがとう、と言うべきなのかしら」
 そっと伏せていた顔を上げた少女がまだ色の抜けきらぬ頬をしたまま、少年に問う。何も言えないまま必死で首を上下に大きく振る彼の姿へ、彼女は消え入りそうな声で礼を告げた。
 そして嫌に熱の篭った空気も頬の赤みも振り払うように彼女は首を勢いよく振り回し、手に持ったままの花冠を頭に乗せた。葉っぱの端が少しだけ地面に落ちて、彼女の蜂蜜色に添えられた淡い色調の花々が一層艶やかに輝いた。
 「凄い、ぴったり! やっぱりあなた凄いわ! ありがとう!」
 その満面の笑顔に報いるだけのことを自分がしたのだと思うと、少年はほんの少しだけ自分を誇りたい心持になって、初めて抱いたその感情に驚きとともにやはり喜びが湧き上がって、彼は何も言えずただ彼女へ笑みを返した。





 照れたように向けられた少年の笑顔に、少女は息を飲んだ。柔らかく丸みを作る赤い頬も、艶やかに光る弧を描いた唇も、喜びに震えるような長い睫毛も、細められた青より深い瞳も、まるで一つ一つが丹精込めて作られた芸術品のようだ。あまりにも優しい笑顔に、彼女は妙に落ち着かなくなって、背中を向けたのはきっと自分さえ分からぬ何かを誤魔化したかったから。
 「な、なんか私ばっかり貰ってばかりみたいね。悪いわね、えっと」
 そして不意に気がついた。と同時に驚愕した。そういえば、まだ大事なことを聞いていない。
 使命感と切実さに満ちた表情で振り向いた彼女に今度は少年も驚いて、勢いよく近づけられた顔へ抵抗することも出来ず目を白黒させて、少女の瞳を見つめ返した。
 「そういえば私、あなたの名前聞いてない! 私はリン、あなたは?」
 意味も無く焦りばかりが先走って問いかけられた言葉に、少年もようやく事の次第に気づき、彼女の瞳を見てまた少しだけ微笑んだ。
 「僕は、レン。リン、素敵な名前だね」
 至近距離の笑顔とさらりと告げられた甘い言葉は、リンには免疫が無さ過ぎた。硬直したままの彼女から一歩だけ離れてその肩を柔らかく押すと、ようやく拘束から解けたリンが我に返った。そんなささやかな触れ合いさえ先程とは勝手が違うように感じて、持て余すような心臓の速さに彼女は気付かれたくないと必死で抑え込んだ。
 「別にいいよ。リンが喜んでくれるなら、僕も嬉しい」
 その矢先にそんなことを言われれば、もう彼女の頬の熱は隠しようがなかった。照れ隠しに動くことも出来ず、ますます加速する鼓動を誤魔化そうと声を張り上げる他なかった。
 「じゃ、じゃあもう一つお願いしようかしら!」
 「なに?」
 息を吸い込み、吐き出す。そしてリンが視線を向けたのは、レンの抱える古ぼけたフィドル。

 「私、レンの演奏する音もっと聴きたいな。弾いてください」

 風で飛ばされてきた枯れ草が傷口に当たったらこんな表情になるだろうか。予想外だと言わんばかりに、苦みを堪えるように、レンの表情に複雑な色が浮かんでは消えまた浮かび、いつしか混ざり合ってなんとも言えない色調を醸し出した。
 「……でも、僕の音は」
 先程までの笑顔がかき消えて、またおどおどとした弱気な影が見え隠れする。フィドルを抱える腕に力が篭るのが見てとれた。耳が肥えているとはお世辞にも言えないリンであっても、そのフィドルの音色がひどく調子っぱずれなことは分かる。祭りの始まりをがたがたにして『怪音』の二つ名をもたらしたその音は確かに他の楽器とは咬み合わないだろう。
 けれど。
 「嫌いじゃないよ、私は」
 演奏と呼ぶには余りにも調子っぱずれな音だと思った。練習と言えば余りにも自由自在な音程だと思った。摩訶不思議なその音を聴いた時、ずっこけそうにもなった。けれどリンは決して不快に感じなかった。
 ああ、なんて楽しそうに音を奏でるんだろうと思ったから、彼女は振り向いたのだ。
 「レンが祭りの最初に弾いた時、倉の方に行ってたから聴けなかったの。だからちゃんと聴きたいな」
 その偽らざる本心にレンの瞳が信じられないと言いたげに見開かれる。心底困ったように顔を俯かせて葛藤する表情へ駄目だしのように彼女が頭を下げれば、しばしの逡巡の後に彼が顔を上げて揺れる迷いを頭を振って落とせば、青より深い瞳にようやく笑みが戻った。
 「……いいよ、その代わり」
 一瞬溜めた息に込めたのはなんだったのか。レンはフィドルを肩に構えて弓を弦に滑らして、最初の一音を奏で始める。

 
「リンが踊ってくれるならね」

 左手が調子よく弦の上で踊り、弓が自在に音を繋いでメロディーを紡ぎ始める。その鮮やかな手つきを見ながら、リンは予想外と言わんばかりに先程のレンと同じような苦々しい表情を浮かべた。
 けれど、他人と合わせる苦痛が無い今この場所で何を躊躇う必要があるのだろうか。彼女の葛藤は一瞬。周囲を見渡して、目を瞑り深く息を吸い込み吐き出して、再び開いた青より澄んだ瞳でレンの奏でる音楽を見つめるように見据えた。スカートを摘み、腰に手を当てて、そうしてリンは初めのステップを踏み鳴らした。





 古ぼけたフィドルが弾むように踊るように調子っぱずれな音を奏でて、赤いスカートがその可笑しなメロディーに合わせるように軽やかに波打って、緑の絨毯に柔らかい陰影を重ねていく。
 慌てんぼうのステップが歌うように跳ねるようにくるくる円を描いて、銀の弦を走る弓がそのへんてこなリズムに寄り添うように艶やかにその身を煌めかせて、薫る風の中に優しい音色を重ねていく。
 初めは恐る恐る、段々互いの呼吸を窺い合わせて、次第に重なる二つの音楽が草原に広がってゆき、高く高く空にまで届くような、遠く遠く冠雪を抱く山々にまで聞こえるような、そんな想像が二人の心の中に広がって甘い陶酔に満面の笑顔が零れた。
  やがて少女が青より澄んだ声で紡ぎ出した歌に、少年の青より深い歌声が重なって、二人は眩く笑い合う。どこまでも響き渡っていくその音は、愛しい相手を見つけ出した喜びに満ち溢れていた。

――音を重ねて、笑みを重ねて、心を重ねて。さあ、手を取って。思いのままに、あなたと共に!


 Fin.



コメント

七瀬亜依香 七瀬亜依香
鏡音の民族調!ひまさんの鏡音!お転婆リンちゃんと気弱レン君きゃっほい! などと叫びながら地面をごろごろ転がりました初聴き時。
 この時はまさか小説を書かせていただけるとは夢にも思いませんでした。いいや夢でも覚めてくれるな万歳!!
 
 さささP様のコメントにあった、『Every Jack has his Jill.』(どんな人にもお似合いの相手がいる=割れ蓋に閉じ蓋)ということわざを元に二人の掛け合いが楽しい曲を聴きながら、ひまさんの素敵な鏡音からイメージを沢山いただきながら、私なりの解釈でそんな鏡音を夢いっぱい遊び心一杯に書かせていただきました。そしたらレン君のフィドルは大量破壊兵器に、リンちゃんの踊りはポンコツダンスになっていました。あれおかしいな?←
 どんな人にも似合いの人がいる。そんな人に出会えたらきっともっとこの世界は素敵に見えることでしょう。運命の出会いは意外と近くに転がってるのかもしれません。わあい、ロマンチスト。←

 私の拙作が少しでも原曲の魅力を増すお手伝いが出来ていれば、こんなに嬉しいことはありません。
 さささP様とひま様、主催の橙-ORANGE-様とアンメルツP様、そしてここまで読んで下さったあなたと鏡音を愛する全ての人に、心からの感謝と御礼を! ありがとうございました!

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