NOVEL-1

魔法の鏡


文字サイズ:





 狭い路地から見える空。半分地下に埋まった部屋。作業場までの階段。削りたての木材の香り立つ作業場。広場に面した教会にパンを分けてもらいに行く道のり。
 それがぼくの世界のすべて。
 「きみ」に出会うまでは。






***


 ぼくの生まれた家は、戸数20ほどの貧しい農村にあった。畑を耕し、家畜の豚やニワトリを育て、季節ごとの天候の変化や税率の上げ下げに絶えずびくびくしながら生きているような毎日。茅葺きの質素な一軒家には、かまどのある広めの土間の上に、はしご段でのぼる天井裏の寝室があるだけだ。それでも両親や弟妹三人と仲良く暮らしていたけれど、6歳になったある日、とある不幸がぼくを襲った。畑で収穫した野菜を売買いするために街の市場を訪れた時、暴れ馬の暴走に巻き込まれたのだ。逃げ惑う人々にもまれて石畳の上を転がった拍子に右足をひどく捻って、以来、その足はうまく地面を踏めなくなってしまった。
 歩く事はできる。けれどひどく緩慢にしか進めない。鋤を引いて畑を耕してくれる牛より遅いんだから、お笑いぐさだ。つまりぼくは、農家の子どもとしてはこれ以上なく、役立たずになってしまったのだ。
 お荷物を抱えたぼくら一家を、更なる不運が襲った。涼しくて、しかも雨の降らない夏が2年も続いたのだ。畑はやせほそり、肥料を撒いて、井戸から汲んだ水を毎日あげても、作物は思うように実らなかった。凶作を耐え忍ぶ2度目の冬のある朝、「市に行こう」と父親がぼくに言った。明日のパンもなく、秋の間にたくわえた豆を毎日少しずつと、それでも足りなくて、木の根を掘って煮込んでかじる生活が続いていた。弟妹たちは毎日お腹が空いたと泣いている。
 いよいよ恐れていた日が来た。
 ぼくは木の根をしゃぶりながら、ぼんやりと父親が差しだした手を見つめた。土が爪の仲間で入って黒ずんだ手。何度もぼくを肩車してくれた、大きくて温かい、だいすきな手。その手を取って、そして古びた扉をくぐってロバの引く荷車にのれば、二度とここには帰って来れないことは、何となく想像がついていた。
 周辺の家々には幾つもそうして子どもが——、ぼくにとってはともだちが、突然いなくなる家があったからだ。理由はたった一言「口減らしでね」そう言えば、済む。その後のことは、誰も知らないし聞かない。
 使い勝手の悪い足をひきずったぼくに、両親を恨む気持ちはなかった。仕方無い。ただ、悲しかったし、ひもじかった。梯子の上からは、母が低く忍び泣く声が聞こえていた。


***


 新しい、分厚い上着を着こんだぼくが降り立ったのは、今までに来た事もない、城壁に囲まれた見知らぬ大きな街だった。朝靄や凩をかいくぐって、そこに辿り着くまでに何度ロバにえさと水をあげたかわからない。ずるいと思うけれどやっぱり仕方無い。人間は食べなくたって文句混じりでも多少は動けるけれど、動物はひもじくなって機嫌を損ねると一歩も動いてくれないのだ。そして足がでくの坊になったぼくより、重い荷車を引けるロバの方がずっと家の役に立っていた。
「ここで待っているんだ。お腹がすいたらこれをお食べ」
 漆喰壁の家々が立ち並ぶ、石畳の細い路地の一角で、ぼくは父親と別れた。今生の別れはひどくあっけなかった。それでも、持たされた麻袋の重さと、母の冬着を一枚くずして仕立て直してくれた愛情が、ぼくをわずかに温めてくれた。さて、これからどうしようと周囲を見渡す。どうしようったって、どうしようもない。
 麻袋の中には大きな黒パンが一つ、丸ごと入っていた。ひとかけちぎって口に入れる。堅くて冷たくて、おいしかった。きぃきぃと甲高い鳴き声にびくりとして上を見上げると、軒先にぶらさがった看板が今にも落ちて来そうに、冬の風に揺れていた。待っていろと言われたその家は、何かのお店を営んでいるようだった。しかし窓も扉も堅く閉ざされていたし、色あせた古木の看板にきざみこまれた意匠が何をあらわしているのか、8歳のぼくにはわからなかった。通りを行く人たちは、ぼくなんて初めからいないかのようにさざめき合い、寒さに身をすくめてゆき過ぎて行った。
 
 とっぷり日が暮れていくにつれ、いよいよ真っ黒な冷たさに足元から沈んでいく。でも、待っていろと言われたから、待っているしか無い。寒空と、キィキィうるさい看板の下で膝を抱き、かじかんだ足をもじょもじょ動かし、このままここで氷になってしまうんじゃないかと目を閉じかけた。
「お前さんはどこの子だい」
 突如、上から声が降って来た。
 見上げると、クマのようにのっそりとした人影が目の前に立っていた。でも金色の髪の毛のクマなんて見た事はないし、それにクマは、こんなに青くて、優しいまなざしはしていない。
 問われるままに「あっち」と、荷車に乗って来た方向を指差す。クマ——その大きな男の人は、それじゃわからんな、と両手を挙げた。
「とにかくここは俺の家で店なんだ。ここにいつまでも居座られても困りゃしないが、行き倒れられると後味が悪い。両親はどこだね」
「迎えにくると行ったけど、きっと来ない」
「! 捨て子か? なぜわかる」
「大事な黒パンを、持たせてくれたから。これだけあれば、弟たちは三日は泣かずに済むのに」
 麻袋の中身を見せたぼくは、寒くて固まっていた膝や足に力をいれて、何とか立ち上がった。もう来ないのだ。誰も。
「おじさん、教えてください。口減らしのこどもは、みんなどこに行くんですか。ぼくもそこに行きたい」
 見上げた大男の顔が、みるみるうちにぼやけていって、喉が火にあたっているように熱くなった。息の仕方を忘れそうになっている。男はぼりぼりと額をかいてぼくを見下ろしていたが、「よし」とうなずいた。
「わかった。今日は疲れているから、明日教会に行こう。今晩は泊めてやる。お前さん,名前は?」
「エレン」
「そうか。俺はレオンだ」
 ひげずらのレオンは、全身から酒の匂いとタバコの匂いがぷんぷんしていた。それでもその笑顔にぼくは、真夏の向日葵畑を思い出したんだ。

***

 結局、ぼくはレオンの店に奉公しながら暮らす事になった。教会が運営している捨て子孤児院がいっぱいなのと、教会からの紹介状をもらって職人組織に登録すると、捨て子を拾って育てる世帯は多少の喜捨がもらえる事がわかったからだ。
「それにお前さんはちぃと足に難ありのようだが、かまどのあつかいも上手いし、手先も器用そうだ。言葉もしっかりしてる。俺はかみさんには流行病いで死なれてちまってね。料理や洗濯、身の回りのこと、そして仕事に精を出すなら、余ってる部屋を宿として提供しよう」
 牧師様立ち会いのもとにレオンからそう提案されても、ぼくは、降って湧いた幸運をなかなか信じられずにいた。
「自分のクソまずい飯を毎日食うのも限界だったんだ。しかし外で済ませるとほれ、金が余計にかかるだろう。酒もつまんじまうし。どうだ、うちに来るか? おい、聞こえてるか?」
 肩に手を置かれて我に返ると、夢中で何度もうなずいた。「うん」とレオンはぼくの頭をもがんばかりに一撫でして
「その代わり、悪さをするようなら即木材にぐるぐる巻きにして、川に流してやるからな」
 ガハハ、とクマのような体を揺らして笑った。悪さなんてとんでもない。谷底に降りて来た一本の命づなを、掴まないわけがなかった。それに、のぞき見た孤児院の子どもたちの暮らしぶりは農村にいた自分よりもどこか鬱蒼としていて、灰色にみえた。修道女や牧師様、神様の御元より、一度泊まっただけのレオンの家の方が遥かに明るく、温かく思えたのだ。うなずいてレオンの手を取ったその時からぼくは、商業都市アルスの、家具職人見習いになった。

 朝起きる。暖炉に火をいれて、朝食の準備をする。レオンが起きるのを待ってパンとスープを一緒に食べ、お椀を簡単にぬぐったら、仕事道具の鑿や鏨、金槌に鉋を棚から出して作業台の上に並べる。午前中はまず、見よう見まねで道具の使い方を覚える事に費やされた。教会の尖塔がお昼の鐘を打つのが聞こえたら、許可証をお腹にしばりつけて教会にいく。これを見せて喜捨のパンを貰うので、無くすと一大事なのだ。ただし、どんなに杖で音高く早く石畳を突こうと、歩みは牛より遅い。
 午後の作業は途中で抜けて、共同の井戸まで出向いて、水を革袋にくんで背負って家まで運ぶ。水汲みに並んでいる間、近所のおばさんたちの話に耳を傾けつつ、「仕事があったらよろしく」と挨拶も忘れない。日が暮れたら酒屋や商工組合の寄り合いに行くレオンを見送って、完全に辺りが暗くなるまでに作業場の掃除と,道具の手入れをしておく。すべての事を終えると、半分地下の自分の部屋へと段をおりて、どろのように眠った。
 パンと、寝床。そのために毎日働き続けた。農村の家族を恋しく思う気持ちは、新しい生活に慣れる忙しさにまぎれて、薄れていった。
 そして休みの日には日曜学校に行く。読み書きを教わる事ができるからだ。数字の読み方も知らないぼくは、寸法をはかるためにまず足し算と引き算を覚えた。ついでに、神様の教えも。
 信じていれば救いがある。
 牧師様は口をすっぱくして、集まる人々に言い聞かせた。たしかに教会の中はいつも静かで清潔で、ステンドグラスから降り注ぐ柔らかい光は、この世のものとは思えないほど美しい。生まれ育った村では見られなかった、色と光の洪水だ。 
 けれど思う。ぼくの弟妹たちは、おそらく両親も、神様のことなんかこれっぽちも知らなかったけれど、そのせいでお腹をすかせていたんだろうか。寒い夏と凶作に襲われたんだろうか。だったら神様が空から降りて来て、自分を信じるよう教えてくれたらよかった。そうしたらぼくらは喜んで祈りを捧げただろうし、救いがあれば飢える事も無く、足だって役立たずにならずに済んだかも知れない。捨てられずに済んだかもしれない。
 信じる者しか救わないなんて、神様はいじわるだ。
 
 教会で教えてくださるみたいには、この世の中はちっとも平等じゃない。富める者は初めから富み、貧乏人はーー、とっておきの幸運にでも恵まれない限り、ずっと貧乏のままだ。例えば、戦争に行って勲章でもとらない限りは。それだって、下層の民ならば持てる武器もできることも限られている。
 清らかな教会の中で神様の教えに耳を傾ける度に、薄汚れて土ぼこりにまみれた、生まれ育った家を思い出した。大風が吹けば飛びそうな、茅葺き屋根の家。ぼそぼそした、口のなかを削るようなパン。水っぽい粗末なスープ。両親の事は面立ちさえおぼろげになり始めていたけれど、大きくて固い、働き者の手の平だけはいつでもありありと思い出す事ができた。神様の存在を農村まで教えに行ってあげられないぼくはせめて、彼らの分までたくさん祈った。
 田舎のそれにくらべて、街の空気はよどんでいる。人が多いから、土や、森のにおいよりも人の匂いがするのだ。道や畑をどろどろにぬかるませるから、嫌いだった雨の日が、街に来てからは好きになった。人のつけた汚れや匂いを、洗い流してくれる。小さな鉢植えを窓辺においた。いくつも、いくつも。けれどその匂いにも、そのうち慣れた。
 心が安らぐのは、食事のときでも、眠るときでもなく、作業場でぷんと香り立つ材木に向かっている時間だった。たとえ装丁も何も無い引き出し一つ、小さなドアノブでもいい。掘って、削って、磨いて、作る事は楽しかった。一通りのことが出来るようになると、一から作るよりも、古びたものを直す方が好きだと気づいた。壊れたからって即お払い箱にするなんてもったいない。下町の家具屋に修理を寄越されるものは、タンスにテーブル、足の壊れた椅子、そんなありふれたものばかりだった。けれど、使い倒されて捨てられそうになっているそのガラクタ達がやってくるたびに、どれもぼくにとっては仲間のように思えて、なんとか元気になって家に帰ってほしい気持ちでいっぱいになったのだ。
 朝も昼も夜も、動かない右足をひきずって作業場まで昇り、パンを学をもらいに教会まで通い詰めた。黙って家の中にいても、誰も訪ねてきてくれないからだ。
 生きることは、そして毎日笑顔で暮らすことは、ちっとも当たり前じゃない。びっこをひき、杖をつきながら教会や市場まで歩く道のりは、他の人の倍かかるし、街の悪童どもにからかわれ、転ばされたりもする事もある。
 助けてくれる大人もいるし、素通りするひともいる。そんな風にしか、世界はないんだと思ってた。
 それでも、材木の扱いや道具の手入れに関しては厳しいレオンも、仕事が終わって道具を放り出せばとてもぼくに親切にしてくれたし、事あるごとに
「おまえさんが来てくれて助かったよ、エレン。何かほしいものはないか?」
 頭を撫で、肩を叩いてくれた。嬉しかったし、ほっとした。もう少し、ここにいていいんだと。そしていつも、ほんの少し先の事が怖くなった。 
 家具は作ったら作りっぱなしではなく、配達もしなければならなかったからだ。重い物を持ってふんばって立つ事はできても、そこから先歩く事が出来ない。歩けなくもないけれど、ふらふらと頼りない有様で危なっかしい。大事な商品を持ったまま転ぶわけにはいかなかった。今はレオンが配達までしてくれるからいい。でも、いつか独り立ちをしなければならなくなったら、どうする?
 先のこと心配してばかりいた。「欲しいものは何か」と聞かれても「蓄えを」としか思わなかった。神様の気まぐれに左右されてひもじい思いをするのは、たくさんだったから。

***

 アルスに来てから4年の月日が流れた。ぼくは12歳になり、すっかり街のほこりの一部になって、装丁が難しくない机や椅子なら、一人で注文を任されるようになっていた。風の強いある日の夕刻、店じまいも近い時間に、軒先の看板の下に荷馬車が止まった。馬のいななきに、ぼくは材木に鉋をかける手を止めて扉に向かった。
「いらっしゃいませ。ご用の向きはなんでしょう」
 入って来たのは、茶色いローブを纏いフードを目深にかぶった——おそらく、老婆だった。同い年の職人仲間の中ではチビの部類に入るぼくよりもまだ背丈が小さかったし、フードからこぼれる髪は縮れた銀髪だったからだ。ただ、曲がった腰の割に
「表の荷車の中にある箱を持って来ておくれ」
 請うた声は思ったよりずっとうら若くて、どこかはっとするような艶を含んでいた。
 持って来た箱を開けてみて、ぼくもレオンも「あっ」と声を上げた。薄手の木箱の中には、驚いて口を開けたぼくらがいたからだ。そこには銀の水面をそのまま凍らせたような、楕円の美しい鏡が横たわっていた。
 老婆のご注文はその裸の鏡に関するものだった。楕円のふちを囲っていた木枠が壊れてしまったから、新調してくれないかと言うのだ。しわだらけの手で報酬の硬貨をみせられ、レオンは冬眠を邪魔されたクマのように、低くうなった。ぼくらのお店は今、商工組合が街の有力者から請け負った大口の注文を抱えていたて繁多だったし、老婆が提示した金額はとても微少なものだったからだ。
「そんな金額じゃ、せいぜい材料費くらいにしかならない。前金ったって、あんた身元は? この街の人間じゃなさそうだが」 
 別に報酬をつり上げようとしての文句ではなかった。これくらい慎重でなければ商売としてやっていけないし、ツケがきくのは城壁の内側の人間同士だけだ。
「もう少しお代をいただけなきゃ、請け負う所は無いと思うがね」
 尊敬する親方の言葉に、ぼくは沈黙して同意した。鏡の大きさから材料費を見積もって、さらにそこに加工代が入るとなると、ぼくたちの儲けはほとんど無いと思われたからだ。けれど。
「そうかい、それじゃ他を当たってどうにもならなければ、このまま質にでも流すしか無いね」
 ゆっくりと身を翻した老婆に、
「待ってください!」
 ぼくは叫んでいた。
「ぼくに任せてもらえませんか。ぼくはその……半人前でまだ未熟ですし、時間はかかるかもしれませんが、それでもよければ」
 隣にいたレオンはあっけに取られてぼくを見つめた。それはそうだろう。自分でも驚いていた。半人前であることを自負していた分、自ら仕事をお客さんに掛け合った事は無かったし、こんな風に叫ぶ事もめったに無いからだ。でも不思議と心は落ち着いていた。きっと一目目が合った瞬間に、ぼくはその、裸の鏡に魅せられていたのだ。
 あるいは断わられるかと思ったが、老婆は鷹揚にうなずいた。そして
「枠の彫り模様はこの図案通りにしておくれ。塗装や材木はお任せするよ」
 と、一枚の羊皮紙をとりだした。作業台の上で図案に向かったレオンが顔をしかめた。
「こりゃあ細工がこまかいな……、おいエレン、大丈夫か? 言っとくがこれを引き受けたからって他の仕事をおろそかにしてもらっちゃ困るぞ」
「それで、構いませんか」
 答える代わりに、ぼくは老婆に尋ねた。さほど待たずして、フードを目深にかぶった頭が上下に振れた。
「じゃあ坊や、頼んだよ。安くて請け負ってもらうんだから、期限はいつでもいい。しばらくしたら様子を見に来るからね」

***

 金属を磨いただけの鏡ではなく、本物の銀盤の鏡を間近で見るのはぼくもレオンも初めてだった。この仕様の鏡を製造できるのは、遠く川をさかのぼったところにある工業都市の選り抜きの工房だけ。その技術は秘伝中の秘伝だった。つまり、預かった品はかなりの希少品であるし、店に置いておくのは危険なので、老婆が持って来た木箱にそのまま横たえて、半分地下のぼくの部屋に保管することになった。寝台とタンスと机椅子一脚、何も無い部屋だ。ぼくが作業場からくっつけてきた木屑が床にばらばらと落ちている有様で、仮に泥棒が入っても、まず素通りすると思われた。 
 一人で店番をしながら、老婆が置いていった図案を見て、その細かい彫りに耐えて、かつあの鏡にぴったりな風合いに仕上がる木材はあれかこれかと構想を膨らませていた。見本の木片の触ったり彫ってみたりしながら、時折訪れるお客さんへの丁寧な対応も、もちろん忘れない。
 ところで、もう随分前から気になることがあった。レオンが納品やら商談やらで店を空けている間は、こうしてぼくが店番をするのだけれど、お店に来るお客さんで、初めて会う人はみんなこう言う。
「大丈夫かい?」
 注文をする人も、注文の品を受け取りにくる人問わずだ。よくよく聞いてみると「あんたに頼んで大丈夫かい?」であるし、「元気がないけれど大丈夫かい?」の時もある。窓を開けていても曇りの日は薄暗い店内のせいかと思ったけど、同じ場所で働いていても、レオンが「大丈夫かい?」をお客さんに言われる場面は、ついぞ見た事がなかった。
 珍しく酒場に行かなかったレオンに、夕食のレンズ豆のスープをお椀によそおいながらその事を話すと、彼は丸太みたいな腕を組んで、さもありなん、とうなずいた。
「そうさなぁ、エレンは賢いし手際はいいが、家具屋としてはちと威勢と気っぷが足りねぇやな。もう少ししゃきっとしたら町中の娘がふりむく器量だと思うぜ? 」
 そんなまさか、と目をぱちくりしたが、レオンは大真面目なようだ。
「お前さん、たまにゃアウディの昼市で時間を潰して来たっていいんだぞ。教会の行き帰りにでもな。あそこにゃ若いもんが集まってるし、俺が言うのもなんだけど店と市と教会の往復で、同い年の連中と遊びに行った事なんざほとんど無いだろう。そうだ、そうしたらいい」
 アウディとは、街の中心にぽっかりと穴をあけた広場のことだ。広場は、街の庶民の社交場で、商人の仕事場で、こどもたちの遊び場だった。常に人と音楽、品物とダンス、おしゃべりで溢れている。噂も流行も常に広場から発信されていたし、中には家でいるよりも広場で時間を過ごす方が長い人もいるくらいだった。
 ただ、農村生まれのぼくには何かにぎやか過ぎて、4年経ってもまだ馴染めない空間だった。教会の入り口はアウディ広場に面していたけれど、一応自分の食い扶持くらいは稼げるようになったので、喜捨のパンを貰いに行く必要も無くなって、仕事で必要な時に素通りするだけだ。例え足を止めたって、踊りの輪を眺めても、声なんかかるわけもないし、かかってもこの足じゃ踊れない。弱気な心中を見越したように、レオンがコンコン、と木匙でお椀を鳴らした。
「エレン、足のことを気にしてるなら、少し忘れてみろ。難しいかもしれんが、引きずるクセがあるなんて、おまえさんがここに座り込んでいたときは、俺にはちっともわからなかったんだからな」
 そう言われてもな。後片付けと翌日の準備を終えて自分の部屋に引き上げてからも、まだレオンの言葉を素直に受け取れずにいた。忘れてみろったって、常に身体の片っぽ、右膝から下にぶら下がって、ぼくの行動を縛るものだ。
 寝間着に着替えようとして、ふと、机の上の木箱に目がいった。立ち上がって、ふたを開けてみて、そこにいたのは——。
 ろうそくの灯りに照らされた、何ともしんきくさい顔だった。亜麻色の前髪は伸びて、目を覆い隠そうとしているし、唇も眉も両端に下がっている。
 耳にも肩にも、小さな木の削りカスがついているし、鼻の頭も拭いきれていないニスで汚れていた。鏡には映らないズボンの裾を見下ろすと、ところどころほころびて穴が空いていた。シャツの胸元を叩くと、ふわりと小さな木の粉がろうそくの光に舞うのが見えた。
「……なるほど」
 これじゃいくら口で元気に「いらっしゃいませ」を言ったところで、「大丈夫か」と問われるのが関の山だ。少なくとも広場で楽しそうにさざめいている人間の中には、こんなカビの生えたような風体のやつはまずいない。
 鏡を机の後ろの壁に立てかけて、試しに横を向いてみると、ほどいた髪はこげた鳥の巣みたいに絡まっていて、あごは不格好に突き出ている。背中だって、あの老婆に負けないくらい丸まっていた。
 前後ななめ、首と腰をひねり回してあらゆる方向から自分を見つめて、その姿にことごとくがっかりしたぼくは、決心した。
 面倒くさがらずに、毎日顔を洗おう。
 服のほこりを落としてから寝よう。
 できるだけしゃんと背筋を伸ばして、目を見開いて頬をあげてみる。髪も切らなければ。
 ためしに何度か鏡の中の自分に向かってほほえんでみると、最初は不自然で不気味だったけれど、見慣れると愛嬌があって悪かないじゃないか、と思えてきた。それにぼくは、笑うとえくぼができるらしいことを初めて発見した。
 レオンの言葉も気持ちに弾みをつけてくれた。そう、棒立ちになるか座っていさえすれば、足の事はわからないんだから。
 
 毎日朝と夜、鏡に向かうようになってから、お客さんの態度は徐々に変わり始めた。挨拶すると、無表情で店に入って来た人もやわらかく微笑んでくれるようになったし、「大丈夫か」と声をかけられる事も、仕事ぶりを心配されることも少なくなっていった。
 僕は早起きして、あるいは食事の後の空いた時間に鏡の枠を彫り始めた。ろうそくや油がもったいないから夜遅くまでは作業ができないけれど、丁寧に慎重に図案の細工に忠実である事を第一にした。花を散らし、今にも飛び立ちそうな小鳥をあしらって、楕円形の枠に彩りをそえていく。
 そして毎朝毎晩、覗くたびに鏡を磨き続けた。チリ一つ、傷一つないその滑らかな表面を拭き清めていると、そこに映る自分の姿まで、きれいにできる心地がしたのだ。いつしか、布を持った手を上に下に動かしながら、心の中で願うようになっていた。
 明日は今日よりいい自分になれますように。もう少しいい日でありますように、と。

***

 半年が経って、木枠の粗彫りはあらかた出来上がったけれど、待てどくらせど、老婆が店に訪れる気配はなかった。レオンはいっそ鏡だけ売っちまおうかと冗談を言ったけれど、ゆっくりと焦らず仕上げられるなら、ぼくはその方がよかった。毎日を同じ部屋ですごしているあの鏡に、少しでも素敵な枠を付けてやりたかったのだ。
 お客さんの態度の変化から、少しはマシな身なりになったろうと自信もついたので、ぼくは少しずつ、広場で過ごす時間を増やしてみる事にした。通りすがった職人仲間以外に声をかけてくる人はいなかったけれど、大道芸人が鳴らす音楽を聞いていると気持ちがほぐれた。それに、フィドルや笛の音や人々の談笑のなかでぼんやりしていると、椅子や机の足を飾る細工の、凝った図案を思いつく事がままあったのだ。だから、家具の修理や寸法測量のような外仕事に行く時は、なるべく麻布を木枠に貼った小さなキャンバスと木炭を持ち歩くようにした。時間があればアウディ広場に寄って、休憩がてら教会の階段に腰掛け、市場やダンスの輪からは少し離れたところでキャンバスに向かうのだ。モチーフを書いてはパンで消して、お腹が空いたらその炭味のパンを食べた。
 そうして広場で素描するようになって、しばらく経ったある日のこと。相変わらず音楽に耳を傾けながらキャンバスの上で図案を練っていたら、初夏の風にさらわれた良い香りが、ぼくの鼻先をくすぐった。ふと面をあげると、深紅のばらの花びらをそのままぬいつけたような、鮮やかな色のドレスが目に飛び込んできた。およそ庶民の広場には似つかわしくない貴婦人が、高下駄の靴を履いて通り過ぎるところだった。
「うわぁ……」
 ぼくは思わず感嘆をもらした。その色彩は、灰色の石畳とくすんだクリーム色の街並みにひと際目立っており、何で染めたらあの色が出るのか見当もつかない。胸元が大きく開いて、襟の高いドレスの仕立ても他では見た事がなかった。
 そのバラのようなドレスを纏った貴婦人は自身もまた、ドレスに負けない艶やかな面立ちをしていた。整った眉目に、紅をさしたぷっくりとした唇。褐色の髪を真珠の飾りで結い上げた首もとは、彫刻かと見まごうほど白く美しかった。花の周りには当然、ミツバチのようにお付きの人が幾人もぶんぶんと取り巻いていて、どこかのお偉いさんのご夫人であろうことはすぐに伺い知れた。
 コツコツと靴音を立てて行き過ぎようとしていた貴婦人は、ぼくの目と鼻の先で突然ひざを折った。小さな悲鳴に、お付きのハチたちが「奥様」「大丈夫ですか」と一層ぶんぶん騒ぎ立てる。足元をみると、底の厚い靴のかかとが取れてしまったようだった。確かいつもテントをひろげている靴屋があったと思うけれど、周囲を見回してみても何故か見つからなかった。ミツバチの一人が通りの向こうに駆けて行く。小走りで家まで馬車を呼びにいったようだった。
 ぼくは転がった靴底と、従者の一人がもっている靴の上の部分を見比べて、階段から腰を上げた。
「あの」
 靴底を拾いがてら声をかけると、残った従者の一人が、居丈高に拳を振り回した。
「なんだ、乞食ならうせろ」
 しかし周囲の人間に肩を支えられて立っていたご婦人は、従者のしかめっ面をみるなり、ころころと笑い飛ばした。
「あらイヤだ、どこに目をつけてるのかしら? 坊やの服装は地味だけれど、身ぎれいにしているじゃない。それに余裕のある大人の男はね、子どもにやたらとつっかかっったりしないものよ。……ごめんなさいね、坊や。何かご用かしら?」
 これを、と拾った靴底を差し出すとご婦人はまつげの長い目元をほころばせた。
「ありがとう。……ついてないわ。短い距離とはいえ、馬車にするべきだった」
 その柔和な笑顔と匂い立つ香油の香りに、耳が熱くなるのを覚えながら、ぼくはなけなしの勇気をふりしぼった。 
「よければ靴を見せてくださいませんか。僕は家具職人の見習いですが、お役に立てるかもしれません」
 本当は靴なんてまったくの門外漢だったけれど、靴底の構造を見て、あんなに重たげなものならば金具や留め具を必要とする木工品とそう変わらなさそうだと見てとれたのだ。案の定、靴底は木製でそこそこの重さがあり、かかと部分の留め具が緩んで外れてしまったようだった。むしろこんなに重い靴をはいて、このご婦人が蝶のように優雅に歩いていたことにこっそり驚嘆した。持ち合わせていた工具で、留め金を絞める。
「ありがとう、あなた。お代は?」
「いえ、ぼくは……、わ!」
 履いた高靴のせいでご夫人はぼくを見下ろす格好になっており、つまり背筋を正したぼくの視線は、絹のような光沢を放つ白い谷間にぶつかってしまったのだった。香油はふくよかな胸にまでたっぷりはたかれているようで、ぼくはご婦人に向かって、邪念を払うように手を振った。
「ひ、ひとまずの修理をしただけですから。あとできちんと靴屋に見てもらってください」
 そう、と満足そうに頷くご婦人に一礼して、教会の階段、放り投げたキャンパスの元に戻った。さて、と気持ちを落ち着ける為に木炭を握り直すと、ひざの上に載せたキャンバスがふいに陰った。直ったくつを履いてご婦人がすぐ近くにいたのだ。素描を見て「あら」と目を細める。
「ねぇ、あなたと、あなたの工房の名前は? お店はどこにあるの?」
 びっくりして、一応居所と店の名前を伝えた。やっと広場に入って来たお迎えの馬車に向かって軽く手をあげると、深紅のドレスの女性は、婉然と微笑んだのだ。
「今日は本当にありがとう。今度お礼にうかがうわね」

 社交辞令だろう、と思っていたのだ。レオンにすら、きれいなご婦人を見たとしか話していなくて、一夜の夕餉の話題で終わり、そのつもりだった。
 一週間後、ご婦人は本当に下町の店まで豪華な馬車でやって来た。驚いた近所の人たちが物見がてら見守る中、あの丈の高い靴に、淡いマゼンタ色のドレスでコツコツと店の中に入って来た紅バラの女性は、口をあんぐり開けたままのレオンとぼくに向かって
「あなた。……エレン、だったわね? 先日キャンパスにかいていた花がらのね、あんな髪飾りがほしいのよ。できるかしら」
 すでにパンで消して、お腹の中におさまってしまっている図案を、ぼくはなんとか思い出して、書き起こした。ところどころ違うはずだと冷や汗をかきながらそれを見せると、彼女は胸元を仰いでいた扇子をぱちんと閉じた。
「あら、この間のよりすてき。ねぇ、もっと色んな模様や図案を描ける? 布でも装飾でも、私そういうものに目がないのよ!」
「あのぅ……。見ての通りうちは宝石や装飾屋じゃなく、家具屋なんですが、マダム・メイ?」
 脇で見ていたレオンがおそるおそる確認する。自慢の父親兼親方は、めずらしく緊張しているようだった。それはそうだろう。材木と削りカスと、ニスの匂いにあふれた仕事場の一角が、突如として春爛漫のバラ園になったようなものなのだから。
「何屋だろうと素敵なものを作る職人に、わたしは仕事を惜しまないわよ」
 貴婦人ーーマダム・メイは誇らしげに、白くふくよかな胸元に手を当てた。
 彼女が店を去った後にレオンから聞いた所、マダム・メイは街の有力者の奥さんで社交界の花らしい。
 以降、彼女が主催するサロンを糸口に、彼女の紹介だと言う女性の顧客が蔓付きのカボチャのように、ひっきりなしにぼくたちの店を訪れた。もちろん、興味と冷やかし半分で下町のさびれた家具屋を訪れた彼女たちが、クマのようなレオンの指先から生まれる、精巧であたたかみのある家具のとりこになったのは言うまでもない。
 後で聴いた話によると、マダム・メイはどこに行くにも基本は馬車で、徒歩で出歩く事は滅多に無いのだという。
「あの広場で、あなたの前で靴が壊れた事は天の采配ね、エレン」
 仕事の相談をするテーブルで、紅くて甘いお茶をカップに淹れてくれながら彼女は笑った。ぼくもそう思った。




1 / 2 / 3

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional