現状維持バイアス

始まりへの一歩


文字サイズ:





 安穏とした関係はとても居心地がいい。
 だが、何もせずにそれに縋り続けた先にある未来は素晴らしいものになるだろうか、と何度も問いかけた質問の答えは決まっている。わかってはいるが行動に移す度胸もなければ勇気は心の奥底に沈んで出てくる気配は皆無という情けない状態で、まだ大丈夫だと確証もない安っぽい言葉を自身にかけて行動に出ることから逃げ続けていた。

 本日の体育は体育館でチームに別れてバスケットの試合をすることになっており、第二試合に参戦するレンは第一試合を体育館の壁際で傍観していた。勝負に熱いクラスメイトの者は声援を送って全身全霊で応援しているが、レンは勝負事にそこまで熱くなることはできないのでただ試合を傍観するだけ。女子も体育館の半分を使って試合をしているが、応援している者は男子よりずっと多いようで声の量では間違いなく女子の方が勝っている。
「……がんばれー」
 無言で傍観することに心苦しさを覚えて小さな声援を送るが、それは簡単に他の音に掻き消されてしまい同じチームの者の耳には届かない。それでも応援したという行為が心苦しさを半減して再び口を閉じてコートの中を跳ね回るボールを目で追う。唐突に頭の上に軽くボールが落ちてきたことに狼狽しながら上を見上げれば、頭に落ちてきた物を持っていたアカイトがいい笑顔――悪戯が成功したと喜ぶ子どものような笑み――で佇んでいて、先程の軽い衝撃の犯人は彼だと悟る。
「応援するなら、もっと大きい声でしないと聞こえないぞ?」
「……べつに聞こえなくても問題ないだろ」
 聞こえなければ応援の意味はないのでレンの行動と言動に矛盾が生じるのだが、レンの気持ちはわからないわけではないので指摘はしない。
「レンにとって試合はどうでもいいってことか」
「――あんまり大きな声で言うなよ。聞かれたらどうすんだよ」
「その時は……レンから逃げる。怒られるのは俺じゃないし?」
 レンを生贄にして逃げようと画策するが腕を掴まれた、と思った時には容赦なく下に引っ張られアカイトは強制的に座らせられる。顔は笑っているが目は笑っていないレンを見て逃げられないことを確信する――試しに足掻いてみたが、腕を強く握られ痛いだけで終わった。
「死なば諸共って言うだろ?」
「やだなー、レン君。マジにならないでくださいよ。ってか目が怖いんですけど何その獲物を見つけたっていうような目は!」
 体育の授業中だということも忘れひとしきり大騒ぎしたあと、レンはアカイトの腕を離す。教師に気づかれなかったなんて今更な心配をするが、二つの試合を見守っている彼には聞こえていなかったようで、そのことに安堵の息を漏らす。
「そう言えばさ、レンの一番の友達っていえばやっぱりあの子?」
「……まあ。なんだかんだで一番話しやすしい」
 少しだけ言葉を濁した返答になったが相手は気にした様子もなく――むしろ納得したように頷いて――コート内でボールを追いかけて走り回るクラスメイトに視線を移す。ゴールの近くまで行ったチームの者からボールを奪われた時は小さく言葉を漏らしていて、話はもう終わったと判断したレンは同じように試合を傍観しようとするが、再び彼の口が開かれる。
「知り合ったのは入学してからだっけ? おまえらの姿を見ていたら正直信じられないけどな」
 彼女と知り合い友達という関係になったのは学校に入学してから数日後のことで、きっかけは覚えていないが話が合うことから異性の中では群を抜いて話しやすい相手となった。異性は話しづらいという印象があったが彼女はその印象をひっくり返してしまい、今では一番話しやすい友達の定位置に着いている――それは彼女も同じことらしく、帰りの時にその話題になり互いに笑い合ったのはまだ記憶に新しい。
「――でも、そんだけ仲がよかったら好きになった時、中々行動に移せないよな」
 的を射たようなその言葉にレンは動揺を隠せず、後退しようとした結果頭を壁に思い切りぶつけ苦悶の声を上げる。それを怪訝な顔で見ていることに気づいたが、弁解すれば墓穴を掘る行為と同義だとわかっているので沈黙を通す。
「なんだ。友達とか言いながらレンは既に友達として見れてないんじゃないか」
 男女の友情は存在して強い絆となるが、それを支える情が友から愛に変われば絆の形も変化を見せる。レンが気持ちの変化に気づいたことに自覚があり、それが早かったとすれば多少なりとも行動を起こしていても不思議ではないが、それがないということは友達と言う名の枠に囚われているに違いない。
「……恋って面倒だな……」
 それが恋をしていないアカイトから恋に悩むレンの姿を見た率直な感想で、羨む気持ちは出てこなかったがレンの恋が成就したその時はべつなのかもしれない。

『現状に本当に満足してるならそのままがベストだろうけど、もしリンさんに男ができた時、おまえは今みたいに隣で笑えるか?』
 体育の時間が終わる間際にアカイトに言われた言葉が頭の中を何度も巡り、その未来を想像してみるが今まで感じたことがないくらい心が痛み、笑えるか自信がない。
「レン、どうしたの? さっきから元気ないみたいだけど……」
 不意に声をかけられて顔をあげると眉を下げて心配そうに自分を見るリンの姿があり、彼女に心配をかけていることを申し訳なく思いながらも本当のことを話すわけにもいかず、適当な理由をつけて謝る。
「ちょっとさっきの体育で疲れただけだよ。それよりさ、リンさっきの試合大活躍だったな」
「やだ、見てたの?」
「当たり前だろ。リンの活躍を見逃すわけないじゃんか」
 見られていたことに恥じらいを感じたリンは僅かに頬を赤く染め手を覆うが、気持ちの整理ができたところで手を離してそっと顔を綻ばせる。
「ありがとう。レンも頑張っていたのちゃんと見てたよ」
「っ!」
 リンとは違いあまり活躍することはできなかったがチームの足を引っ張らずにすんだ試合を見られていたのかと思うと、恥ずかしさのあまりリンの顔を見れなくなるが、これは先程まで彼女が同じように感じていたことなのだと悟ると同時にその時の心情が今ならよくわかる気がした。
 何か他のことを話そうとする前にリンは名前を呼ばれて女子のところへ行ってしまったが、少しだけ話をしたことでレンの心は思っていたより簡単に決まった。アカイトが言った未来は無数の中にあるそのうちの一つで――このままの状態を維持し続けた先にある未来――それを望んでいないのなら、どう行動すればいいかなんて問いの答えをレンは知っている。
 善は急げと早速行動に移そうとしたが、他の者の目のある場所でするのは見られているような気がしてどうにも動けず放課後を待ったが、今度はどう切り出せばいいのかわからないまませっかく二人きりだった帰りの道のチャンスさえも逃してしまった。自分のあまりのへたれっぷりに嫌悪しながらレンは自室のベッドに沈んでいたが、いつまでもこのままでは本当に想像した通りの未来が待っている。
「……俺の馬鹿野郎!」
 一度だけ自分を貶したあとレンはベッドから飛び起きるとこれからどう行動するかを思案する。恋愛面に疎いレンがどんなに頭を捻っても出てくる考えは少なく、効果があるかはわからないが何もしないよりはマシだと言い聞かせて、浮かび上がった一つの案を実行すべく机の上に置いていた携帯電話を手に取る。その隣には以前知り合いから行けなくなったからともらった遊園地のチケットが二枚おざなりに置いてあったが、それを失くさないように机の引き出しの中に入れる。
 登録してた電話帳からリンの電話番号を出すと躊躇うことなく通話ボタンを押すが、鳴り響く電子音にレンの動悸も徐々に速くなり、緊張も高まっていく。普段通りに話せばいいだけなのだが心は特別なことと意識してしまい、それを変えることもできない上に既に構えてしまった心は緊張を解いてくれない。
『もしもし?』
「あ、リン? 今大丈夫?」
 携帯電話から聞こえたリンの声音は普段と変わりないのに対し、レンの声音は緊張のあまり若干上擦ってしまい、彼女に悟られてしまったかと心配になるが、そんなことを考えているよりも言わなければならないことがある。
『今大丈夫だけどどうしたの?』
 今まで使うこともなく心に溜め込んでいた勇気を引っ張り出して、振られたらなんて想像は頭の中から追い出す――結果なんてやってみなければわからないのだから。
「あのさ、今度の休日――」
 後悔なんてしない未来のために、今現状維持という境界線から足を踏み出す。



コメント

由宇 由宇
青春にぴったりな曲で書いていてとても楽しかったです。友達という関係で留まるか進むかでまた未来も違ってきますし、この曲は本当に聴くだけでいろいろ想像してしまってニヤニヤします。恋に悩む姿って可愛いね、レン君頑張れ。亜種を出しても大丈夫か悩みましたが、アカイト君に出演してもらい、彼のおかげで最初のあたりを楽しく書けました。今後はきっとレン君のために頑張ってくれるはずです!

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional