NOVEL

戦場のボーカロイド


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 黒い箱の中で、眠りについていた。

「そこ」では私は満足に手足を伸ばすこともできずに膝を抱えて座りこみ、ただただ光のない空間でいつ覚めるとも知れない眠りについていた。
 自分の姿さえも確認することのできない箱の中は果てのない暗闇の中と同じで、いつしか折り曲げた手足の感覚は麻痺し、自分がどんな姿勢をしているのかすら分からなくなった。もはや身体と箱の境目さえも分からない。もしかしたら私というものはなくなって箱とひとつになり、その箱もまた深い夜のような暗闇とひとつになってしまったのかもしれない。
 淡くぼやけた意識の中で、ずっとそんなことを考えていた。
 けれどそれを黒い箱だと認識できたのは、今はこうして蓋の開いた箱の外に出られているからで、箱の内側が光を浴びると同時にようやく目を覚ました私は、光に瞼を焼かれて小さな呻き声を上げた。
 それからどのくらいの間そうしていたのか、徐々に光に慣れてきた瞳で周囲に視線を巡らせると、それまで私がいた場所が黒い箱の中だったことを知り、箱の外には世界が広がっていることを知る。ずっと暗闇の中にいたせいで眩しさを感じることしかできないが、ここよりもずっと明るい世界らしい。
 ただ、それだけ。それ以上のことは何も分からない。そのときの私はただ、目に映るものを認識するだけで精一杯だった。
「これが、私の手。足……」
 目に映るものすべてが私にとっては新しく、その存在を確かなものにするために声に出してひとつずつ確かめていった。やけに大きな襟からは黄色いリボンが垂れている。私の髪と同じ色。丈の短い上着からは無防備と言えるほど腹部が露出している。あの箱とくらべると白すぎるくらいの肌の色。それから上着と揃いの色をした黒いズボン。でも私が今までいた暗闇よりも、色味を感じることのできる黒だった。
「…………におい」
 まだ明るさに慣れないせいかすぐに疲れてしまった目を擦りながら箱のすぐそばにうずくまっていた私は、風と一緒に漂ってきたそれにひくりと鼻先を動かす。
「鉄の、におい」
 錆びた鉄の臭い。硝煙の臭い。何かが焼け焦げた臭い。鼻の奥を刺激する饐えた臭い。
 乾いた空気を肺いっぱいに吸いこみながら、自分にも臭いを感じ取ることのできる感覚があることを知る。なんだろう。これはいったい何だろう。そうして思考を巡らせていると、ようやくひとつの疑問にたどり着く。
 ここはどこだろう。
 箱のそばから身体を起こし、眼下に広がる光景がその疑問に答えを示してくれる。もはや建物としての形を成さない瓦礫の山。崩れ落ちた壁の合間から見える、黒くなった鉄骨。あらゆるところから上がる黒い煙。
 瓦礫から少し離れた場所には人工的に作られた大きな穴があって、その中には ――…かつては人だったものが堆く積み上がっている。
 穴の中からも立ちこめている火薬の臭い。何かが焼け焦げるような臭い。饐えた臭い。
 ――…ああ、そうか。

「ここは」

 どうやらここは戦場だったらしい。




 眩しいものとばかり思っていた空はよく見ると分厚い雲に覆われていて、空と雲の境目さえ曖昧な鈍色の空がこの世界の果てを塗り潰すようにどこまでも私の頭上に広がっていた。雲の隙間から一瞬だけわずかに差しこんだ光も、すぐにまた分厚い雲の中に飲み込まれていく。
 遮るものもなく強い風が吹き抜けていく音、瓦礫の破片が崩れ落ちる音。しばらくの間そんなものに耳を澄ませていると――。
 ふいに遠くから、誰かの泣き声が聴こえた気がした。
「誰……?」
 やがて啜り泣くような声が絶え間なく響いている方向に、瓦礫の影に隠れるようにしてもたれかかっている小さな人影を見つけ出す。もう生きている人間なんていないんじゃないかと思っていた、暗く陰惨なモノクロの世界で――…。
 少年が一人、泣いていた。
「……どうして泣いているの」
 私は震えているその背中に何かを考える間もなく、気付いたときにはもう声をかけていた。
「みんな死んじゃったんだ。大切だった人も、大切じゃなかった人も。みんな、みんな」
 少年はこれといって驚いた様子もなく、絶えることなく頬を濡らしているものを何度も何度も拭いながら、すっかり嗄れてしまった声で話し続ける。最初のうちは淡々と、けれどそれを言葉にしているうちに声が震え出し、やがて堰を切ったように声を荒げる。
「なんで、どうして、こんな……」
 少年の青い瞳から滲み出す感情。悲しみ。怒り。憎しみ。移り変わるそれらの感情は激しさを増し、やがて絶望の内に色を失う。
 それはこれまでにも幾度となく目にしてきた光景だった。それがどんな場面だったかは思い出せないけれど、私はこれを知っている。知っている。
「う、あ、ああ、あ……っ!」
 知っているけど、よく分からない。
 そして彼にかける言葉を私は持っていなかった。
 ならば何をすればいい? かける言葉もなくその悲しみから助け出すこともできないのなら、どうして私はここにいる? 今にも壊れてしまいそうなこの子供のために私ができることは本当にないのだろうか。なにか。何か。何か――…。
 わずかな胸の軋みに呼応するように喉の奥が小さく震えて、そこから聴いたことのない音がこぼれ出す。
 言葉よりもずっと不確かで、声というよりは吐息のように唇から自然と流れ落ちる旋律。それは、

「歌…………?」

 すると少年はそれまで大粒の雨を降らせていた瞳を驚いたように大きく開いて、しばらく夢中で喉を震わせていた私をじっと見つめる。そこにはもう怒りも悲しみも満ちてはいなかった。

「君はアンドロイドだったんだね」
 私の両耳にあてられたヘッドセットとそこから身体に絡みついている三色のコード、腕にナンバリングされている製品コード、それから人とアンドロイドを区別するためにつけられている外見の特徴をいくつか上げて、少年は確信したように言った。
「けど歌うアンドロイドなんて見たことないよ。戦うためのアンドロイドならたくさんいたけど……あ、でも」
 思っていたよりも口数の多かった少年は私の外見やナンバリングされているコードを観察しながら様々な意見を述べて、その中でもまた新しい発見をしたらしく声を弾ませた。瓦礫と乾いた土ばかりで色を失った中でも青く煌いているその瞳は今や好奇心に満ちている。
「そういえば何かの本で読んだことがある。ここよりずっと遠い東の国には歌うためだけに作られたアンドロイドがいるって。たしかボーカル・アンドロイド……」
 そうだ、と少年は顔を上げて私の瞳をまっすぐに見上げてくる。眩しい、と私は咄嗟に目をそらしてしまいそうになる。
「ボーカロイド」
 その単語を少年が口にした瞬間に、身体の奥底にある歯車がカチリと音を立てて噛み合うのが分かった。歌うためだけに作られた機械。アンドロイド。
 ボーカロイド。それが私?
「でも、本当にそうだとしたら、どうしてこんなところにいるの?」
「分からない」
 どうしてここにいるのかも、自分のことも。まだ何も分からない。
 ただ気付けば黒い箱の中で眠っていて、目を覚ましたときにはこの場所にいた。いくつかの断片的な記憶や知識はあるけれどそれもうまく掴めないものばかりで、自分の名前すら覚えてはいなかった。
「まるで迷子みたいだね」
 これからいったいどうしたらいいのか分からずに俯いていた私に、少年は精一杯に腕を伸ばしてその小さな手で私の頭を撫でてくれた。
「あなたの……名前は?」
「僕はレン。レンって呼んでいいよ」
 さっきまではあんなに悲痛な泣き声を上げていたのに、今では私のことを気遣うような優しい視線を向けている。その頬にはまだ涙の痕は残っているし、ふとしたことでまた壊れてしまいそうな心をか細い糸で繋ぎ合せているような危うさを持ち合わせているけれど。
「レン」
 その糸を手繰り寄せるように、私はゆっくりとその名前を呼ぶ。はじめて声にしたその名は、とても綺麗な音の響きをしていた。
 すると少年はまた少しだけ泣き出しそうな顔をして、けれど涙が滲む寸前で唇の端を噛みしめると、この場には不似合いなほど明るい声を出す。
「ねえ、行くところがないなら一緒にいようよ。だって僕ら、どうしようもなく一人ぼっちだもの」
 そう言って返事を求めるように手を差し出してきた。私は少しだけためらってから、小さな手に自分の手のひらを重ね合わせる。
「よろしくね、迷子さん」
 そして少し前までは泣き腫らしていた瞳に、私の姿を映し出す。
 その瞳を見て、私は自分がとても冷たい瞳をしていることを知った。




 ここでは他に知っている人間も話しかける相手もいない私たちはすぐに仲良くなった。いつでも行動を共にし、たくさんのことを話し、そして瓦礫に埋もれた戦場を昼も夜もなく歩き回った。
 てっきり他には誰も生き残っていないものと思っていたけど、レンと同じように生き残った孤児や老人、どこからかやってきては廃墟や遺品を漁っている薄暗い目をした男たちの姿を日に何度か目にして、そうでないことはすぐに分かった。
 それ以外の生き残っていた人たちは、この土地を離れて別の土地に移っていったらしい。
「ここも少し前までは戦場なんかじゃなかったんだ。そんなに豊かじゃなかったけど水と緑がすごく綺麗で、空の色も今みたいな暗い色じゃなくてもっと、眩しいくらいの青で……」
 レンは瓦礫の積み上がった場所に上ると焦がれるように空を仰いで、そこに光の一筋も差していないことを知ると寂しそうに頭を垂れた。私は見たこともない色を思い浮かべることもできず、きっと明るい場所で見たレンの瞳と同じ色をしているのだろうと思った。
「それまでも内乱はしょっちゅう起こってたみたいだけど、きっとすぐに元通りになると思ってた。すぐ隣の国と紛争が起きたって聞いたときも、遠い世界の話みたいに思ってた。けどいつからか取り返しのつかないことになって――…」
 そう言って自分の真上に翳した手を見つめていたはずの瞳はどんどん遠くなって、ここではないどこかに心まで持っていかれてしまったようだった。
「ある朝いきなり空が真っ白になったかと思ったら、頭が割れそうなくらい大きな音がして、見たこともないような形の飛行機がたくさんの爆弾を落としていったんだ。僕は扉の近くにいたから吹き飛ばされるだけで済んだけど、他のみんなは建物の下敷きになって、そのまま」
 そのまま。その先に続くはずだった言葉は、瓦礫の下に向けた視線と一緒に埋もれてそこで途切れてしまった。
「……隣の家に住んでたおじいちゃんもおばあちゃんも、また明日なって言って別れた学校の友だちも、みんないなくなっちゃった」
 私はあいかわらず何と言っていいのか分からずに黙りこむことしかできなかったけれど、それでもレンは構わずに話し続けた。そこに最初に会ったときのような激しい感情はなく、むしろそれとは対照的な――すべてを失ってしまったことを理解した、何の感情もない声が紡がれていくばかりだった。
「レンはここじゃないどこかに行こうとは思わなかったの?」
「どこかって、どこに?」
 私の疑問に温度のない声でそう聞き返し、足元に積みあがっていた瓦礫の破片を掴み上げるとそれを遠くに放り投げる。
「どこだって同じだよ。もう安全な場所なんてどこにもない」
 放り投げられた破片は地面に触れるとすぐに砕けて粉々になった。
「それに知らない場所で死ぬくらいなら、ここで死んだほうがずっといい。ここならみんな一緒にいられる」
「レンは死にたいの?」
 何気なく口にしてしまったその言葉に眉を潜めるのを見て、聞くべきではなかったと少し後悔した。
 けれどレンはそんな私に憤るわけでもなく、しばらく苦しそうな吐息を唇の隙間から漏らし、それから――。
 死にたくないよ、と今にも消えそうな声で呟いた。




 瓦礫の中を歩き回りながら私たちがやることと言えば、まだ使えそうなものや食べられそうなものを探し出すくらいで、それだって一日中探し回ってようやく見つかるかどうかといったところだった。まだ比較的崩れていない建物の中に残っていたはずの多くのものは、どこからかやって来ては瓦礫を漁っている人相の悪い男たち(最初は何をしているのか分からなかったけど、どうやら価値のあるものを集めて自分たちの国で売りさばいているらしい)に片っ端から奪われていて、そこにはもう誰かが暮らしていた痕跡すらほとんど残されていない。
「ここもだめか……。ひとつくらい残ってると思ったんだけど」
 もとは商店だった建物の棚に並んでいたはずのものもやはりひとつ残さず奪われていた。その光景に肩を落としながらもどこかに缶詰のひとつくらいは残っているんじゃないかと手分けをして建物の中を探索していると、空になったカウンターの奥にある小さな扉に鍵がかかったままになっていることに気付いて、私はすぐにレンを呼んだ。
「こっち、まだ奥に部屋があるみたい」
「本当?」
「うん………きゃ、っ!」
 けれどレンが顔を見せた瞬間に、鍵を壊そうと手に握っていた金槌がその重みに耐え切れずに滑り落ちてしまう。
「大丈夫?」
 その反動で床に倒れてしまった私に、レンは心配そうな顔をして手を差し伸べてくる。それからなぜか少しおかしそうに唇の端を緩めると、
「ボーカロイドって本当に歌う以外には何にも特化してないんだね。他のアンドロイドは人間の何十倍もの力があったり、目からレーザー光線を出したりするのに。そうしてると普通の女の子みたい」
 そう言って、レンはめずらしく声を立てて笑った。
「…………ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
 きょとんとした顔でこっちを見つめてくるレンに、私はさらに深く俯いてぽつりぽつりと申し訳ない気持ちで言葉を漏らす。
「私が普通のアンドロイドだったら、もっとレンの役に立てたのに」
 こんなところで歌なんか歌えたところで誰も聴く人はいないし何の役にも立つはずがない。力だって普通の人間かそれ以下。そのうえ自分がどうしてここにいるのかさえ分からない。もっとレンの力になりたいのに、自分に何ができるのかさえ分からない。
「……一緒にいてくれるだけでいいよ。他には何にも」
 何も、いらないよ。
 その言葉を聞いた瞬間に、あの日泣き叫んでいたレンを目にしたときに感じたものと同じ種類の――…それよりももっと大きな軋みに、胸が壊れてしまいそうだった。
 だけど本当に壊れてしまったらもう一緒にいることはできなくなって今度こそレンを一人にしてしまうと、私は痛みを訴えている胸を押さえつけてそれ以上は何も感じないように何度も願った。あの暗い箱の中で膝を抱えて、眠りについていたときのように。






「レン、ちゃんと食べなきゃダメよ」
 それからいくつもの夜を数え、瓦礫の中から掘り起こした足の潰れたベッドに埃まみれのシーツを張り合わせて作っただけの寝床で膝を抱え、今にも眠りに落ちそうな顔をしているレンに私は何度も呼びかけながら肩を軽く揺する。ベッドの上にいくつか並べていた食事はパンの缶詰を少し口にしただけで昨夜からまるで手がつけられていない。
「食べてるよ。僕が寝てるあいだにも君が探してきてくれるから、前よりもずっと食べてるだろ?」
「でも――……」
 そんなことを言っても私の目に映っているレンの身体は出会ったときよりもずっと痩せて、腕や足はほとんど骨と皮のみでできているんじゃないかというほど細くなった。その頬にだって本当に血が通っているのか疑いたくなるくらい真っ白だ。
 そんな姿を見ているとどうしても不安になって、私はレンが寝静まったのを確認すると二人でいるときにはいつ崩れるか分からないからと近付かせないようにしていた瓦礫の中を探し回って――もともと私の身体は食事も睡眠も必要としないのだからこのくらいのことは何てことはない――見つけ出してきた食糧にも、レンはほとんど手をつけてくれなかった。次第に起きている時間よりも眠っている時間の方が多くなって、一日のうちに動ける時間も少なくなってきた。
「もう眠いから少しだけ寝るよ。何かあったら起こして」
 そう言ってベッドに身体を横たえるレンに、私は口にしようとしていた言葉を飲みこんで、寝ている間もほとんど身動きすらしないレンの姿をじっと眺めていた。
 このまま動かなくなってしまったらどうしよう。二度と目を覚まさなかったらどうしよう。一人で起きているとそんなことばかりを考えてしまうから、もう少ししたらまた瓦礫の中に食糧を探しに行こう。ほとんど手をつけてくれないと分かっていても、私にできることなんてそれくらいしか――…。
「……手、繋いでもいい?」
 そんな私の変化に気付いてか、レンはひどく緩やかな動作で持ち上げた手を、すぐ隣でじっと視線を向けていた私に伸ばしてくる。今にもこの深い夜に溶けてしまいそうなほど白くて細い指。私はすぐにその手を取ると、強く握りしめた。
「うん」
 ずっとこのままでいられたらいいと思った。このままどこにも行かずに二人でここにいられたら。この小さな手を握りしめていられたら。もう他に望むものなんてない。
 だけど「その時」は私の不安な気持ちを見透かすように、確実にやって来た。




「……ねえ、そこにいる?」
 もう一人では歩くことも立ち上がることもままならなくなって、視力さえほとんど失われた瞳にはもうあのとき眩しいと感じた輝きはなく、二度と光の差さない水面のような仄暗い色を湛えていた。
「いるわ。私はここにいる」
 私はベッドに仰向けになったまま自分からは動かすこともできなくなったレンの手を取り、強すぎるくらいの力で握りしめる。
 だけどどんなに力を込めても、わずかにも握り返されることはない。水のように冷たくなった手にはもう感覚すら残っていないようだった。
「ここに……、っ」
 せめて少しでもその苦しみをまぎらわせたら、もう届かなくなった言葉を伝えることができたら。言葉にならない何かが喉の奥に詰まって、まともに声を発することもできない。このまま放っておけば壊れてしまうかもしれない。
 だから私は歌った。言葉にならない思いを歌声に乗せて、音色に変えて、私の中から流れ出す旋律に重ねて。
 私はここにいる。あなたとともにある。たとえその瞳が私を映さなくても。
 この声が、届かなくても。
 それを願ってくれる人がいるのなら、私はここで歌い続ける。悲しみに満ちた世界には喜びの歌を。絶望に侵された世界には希望の歌を。泣いている子供には祈りの歌を。歌い続けよう。たとえ声が嗄れ果ててもこの胸が、この喉が音を奏でるのなら。歌い続けよう。だって、それが私の――…。
 歌い終えてからベッドの上に視線を向けると、レンの白く乾いた頬に一筋の涙が伝っていた。

「君はそのために生まれてきたんだね」

 レンは掠れた声でそう呟いて、かすかに光が宿った瞳でこちらを見上げていた。もうその瞳が私の姿を映すことはないけれど、それでも確かにここにいるのだと。
「ずっと一緒にいてくれてありがとう。歌ってくれてありがとう。僕にも何かあげられるものがあればいいんだけど……」
 そんなものいらない。あなたがここにいてくれれば、こうして一緒にいてくれれば。
 そんなこと、言えるはずもなかった。
「そうだ。君に名前をあげる」
 冷たい手が私の頬を撫ぜる。そのまま滑り落ちそうになった腕をすぐに支えて、両手で握りしめる。
「僕の死んだ片割れの……姉さんの、名前」
 遠くにいってしまったものを懐かしむように細められ、その唇はずっと忘れていた言葉を紡ぎ出す。

「リン」

 それきり、かすかに開いた唇は動くことはなく。いつの間にか閉ざされていた瞼が持ち上がることもなかった。
 握りしめていた腕は私の手の中をすり抜けて、シーツの上にぼとりと音を立てて落ちる。そのままもう二度とは動かない。
「…………リン」
 レンと同じようにとても綺麗な響きの音。すべてを失くしてしまったと泣いていたあの子が、それでも最後まで抱えていたとても大切なもの。
 そんなものを貰ったって、誰かが――…あなたが呼んでくれなければ意味がないのに。
 だけどその唇はもう二度と声を紡がない。私の名前を呼んでくれない。光の失われた瞳はもう何も映さない。あなたはもうここにはいない。もうここには何もない。何も、なにも。
「あ――……あ、あ」
 ――…ああ、ああ。
 気付いてしまった。知ってしまった。こんな私にも感情があることを。絶望できる心があることを。
「ぅ、あ、ああ、あああ……っ!」
 どんなに言葉を尽くしてもこの気持ちを抑えることはできない。叫び声では届かない。だから――。
 歌を。歌を。喉が張り裂けるほど声を上げ、歌い続けた。

『もし……なら。誰かの希望に――…』

 すると慟哭のような歌声へと重なるように、いくつもの回路がショートを起こしかけていた私の頭の中で誰かの声が再生される。低く響く声。知らない。けれどよく知っている声。
 それはずっと感情と一緒に閉じこめてきた、途切れていた記憶。私がここにいる理由だった。

『――もしもこの歌を戦場に届けることができるなら。誰かの希望になれるなら』
 世界的に著名な音楽家だったその人は、幅広いジャンルの楽曲を提供する作曲業の傍らで、平和を願う歌を数多く作り出していた。その曲を聴いた人々は彼を賞賛し、またその歌に込められたメッセージに共感してくれた。
 けれど彼は気付いていた。どれだけそんな歌を作り続けたところで、それを本当に伝えたい人がその歌を聴くことはないのだと。伝えたかったことは何ひとつ伝わることはなく、絶望を抱いたまま多くの命が失われていくばかりなのだと。
『そんなのできるはずがない。分かってるよ。こんなのは安全な場所でぬくぬくと生きている人間のたわ言だって』
 それならなぜ自分はこんな歌を作っているんだ。ただの自己満足じゃないか。一度考え出してしまえばキリのない問いは、日を追うごとに彼の心を蝕んでいった。
『それでも…………』
 目の前でこぼれ落ちる透明の滴。それを掬ったのは、冷たい機械の指。
『だったら私が届けにいく。人間じゃない私になら、それができるでしょう?』
 ボーカル・アンドロイドとして彼の音楽を作り出す手伝いをしていた私は、自分は無力だと嘆いているその人を前に、何の迷いもなくそう言い切った。
『どんな場所だって……たとえそれが戦場だって、私がするべきことはひとつだけ』
 それ以外にできることなんてひとつも与えられていなかった。必要なかった。
『いくら時空を転移するための装置とは言っても、こんなに長距離を移動することを想定して作られていないから、いったいどこに辿りつくのか、それが現在なのか過去なのか未来なのかも分からない。もしかしたら別の惑星かも』
 黒い箱の形をした転移装置の中に入っていく私に、一度は私の提案に頷いたその人はひどく不安そうな顔をした。
『そこが戦場であることは確かだけれど』
『わかってる』
 私に不安がないと言えば嘘だった。もう二度と彼に会えなくなることも何となく分かっていた。
『それでもあなたが、この世界で誰かが願っていてくれるなら。私はどこでだって歌う』
 暗い箱の中で声が反響する。歌うために作られた声。音色。旋律。たくさんの歌。
『私はそのために生まれてきたんだから』

 息を引き取った少年の亡骸を抱え、瓦礫の一番高い場所に立って私は歌い続けた。歌声は遠く、どこまでも響いていく。
 それを目にした人々は目を疑い、あまりに場違いなその姿に「ふざけるな」と次から次に罵声を浴びせてきた。それでも歌うことをやめなかった私に、今度は言葉のかわりに石や瓦礫の欠片を投げつけてくる。
 そのほとんどが届くことはなかったけれど、いくつかの破片は顔の横や腕を掠めていった。同じ場所を何度も掠めると表面の塗装が剥がれて機械の部分が剥き出しになる。けれど私は歌い続けた。

 私はボーカロイド。歌うためだけに生まれてきた。その作り手が込めた想いを、伝えたかった人たちに届けるために。
 この手は誰を救うことも、乾いた大地に花を咲かせることもできない。
 ならば、私にできることはひとつしかないでしょう?

「……なんで、歌なんて」
 いつのまにか石を投げつける音は止み、憎しみに満ちていたはずの瞳からは滴が落ちていた。乾いた大地を湿らせる雨。
「こんなところで、歌なんて……っ」
 誰にとっても平等なはずの空の下で、絶望に打ちひしがれている人がいる。あんなにも小さな瞳が止むことのない雨を降らせている。その雨を止めることも戦うこともできない。それでも、私は。

 戦場にボーカロイド。あまりに無力で異色な存在。
 けれどそれを望む心があった。それを望んだ人がいた。

 私はボーカロイド。歌うことしかできない。
 ならばどこにいようと私にできることなんて、ひとつしかないでしょう? 
『君は希望だ』
 黒い箱を閉じる瞬間に、彼が私に言った言葉がくり返し再生される。人が望むからそこに希望が生まれる。ならば彼にとって私は希望だった。そして誰かにとっての希望であって欲しいと願っていた。
 それが光を失った世界でも。すべての希望を失った世界でも。
 願うことをやめられない人たちの希望。箱の底には、絶望の果てには希望があると信じた人たちの――…。

 私は歌う。たとえ戦場の真ん中でも。
 神様にさえこの声を殺す権利はない。

 やがて世界中を回りながらボロボロの姿で歌う私のことを「戦場のボーカロイド」と呼ぶ人たちが現れるようになった。あるときは希望を垣間見せる天使と、あるときは災いを連れてくる死神と。希望とも、絶望とも。
 だけど呼び方なんてどうでもよかった。私にはたったひとつの名前がある。誰に呼んでもらえなくとも私がそれを知っている。あの日、冷たい土の下で眠りについたあの子も知っていた。

 私は歌う。私は歌う。
 たとえいつか世界が消え去ったとしても。この歌と想いは記憶の中で鳴り続ける。消えない想いがあることを知っている。






 私は歌う。私は歌う。






                End.






【引用】戦場のボーカロイド/zyun(ジュンP)





コメント

つつの つつの
「戦場のボーカロイド」という楽曲を『kagamination』で聴いたとき、1本の映画を最初から最後まで通して見ているような感覚に強く惹きつけられたのをよく覚えています。
そして二次創作アンソロジーの担当する楽曲の募集ではぜひこの「戦場のボーカロイド」の世界を自分なりに表現したい!と、希望させていただきました。

楽曲の解釈を交えつつもオリジナルの部分もかなり濃くなってしまいましたが、とても楽しく書かせていただきました。
いつも壮大な世界観の楽曲を制作されているジュンP様、また二次小説化するにあたってイメージにかなりの影響を受けさせていただいた動画でのイラストを制作された突破様に多大なる感謝を。

このたびは素敵な楽曲を担当させていただきありがとうございました。

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