忘れそう…
得たものと忘れたもの
「オレ、もう続けられないかもな……」
そう言い出したのは食事をしながらレンと一緒に夕方のニュースを見ていたときだ。
ニュースでは、コンピュータの新型デバイスが開発されたこと、そして次期OSで対応する見込みであることを伝えていた。
そのデバイスとは、人間の五感に今までとは比べものにならないほど積極的に働きかけるもの。将来提供されるコンテンツは、新型デバイスを活用してユーザにより豊かな感動を与えることになるだろう、と専門家がインタビューで解説していた。
「こうやって一緒に音楽やってられるのも今のうちかもしれない。忘れられるかもしれない」
私は、レンの言っていることが飲み込めなかった。電子の世界の存在である彼が、人間と接触するチャンネルはこれまで限られてきた。基本的には聴覚と視覚だけである。それもユーザの想像力で大幅に補って初めて成立しているだけだ。それが充実した上に、触覚が加わり……、味覚と嗅覚は一部の人にしか需要がないかもしれないが、ともかく、飛躍的に彼らの存在感を強めることができるのではないか、より高度なコンテンツを提供できるのではないか、そうレンに尋ねてみた。
「みんなの想像力がなくなったら、オレらみたいなボーカロイドは生きていけないんだよ」
「正確に言うと、みんなの家にいるオレら、だね」
レンはずいぶん難しいことを言う。
「オレがこの家に来てもうすぐ5年。居心地よかったし、たくさん歌ってたくさん曲を作ってくれた。オレはもうただの鏡音レンじゃなくなって、あんたの家の鏡音レンになれたんだ」
それなら、今度のデバイスでもっといろんな感覚を共有できるのではないだろうか。
「多分、次に出てくるOSでは、オレらはそのままじゃ動かないよ。さっきも言ったけど、今のボーカロイドの存在を支えているのはユーザみんなの想像力。提供側はそれほどたくさんの情報を盛り込んでいない。ユーザ側にゆだねられている部分が多いんだ」
なるほど、鏡音レン、という存在はあちこちにいるけれど、うちのレンを育ててきたのは5年間の自分の活動だ。もはや提供元のニュートラルな状態とは別のものになっている。
「コンピュータが五感すべてに深く関わるってことは、プログラムの存在が曖昧ではいけないんだ。厳密に定義しないと不安定になってしまうから」
なんとなくレンの言っていることがわかってきた。
「今のボーカロイドは提供元が何も縛らなかったから、オレたちは好きに歌って、好きに踊って、好きに喋って、服も好きなのを着て……。これからはそういうわけにはいかない。全部厳密に決められた状態で用意されるはずだ」
レンの心配はもっともだ。でも、それは新しいOSと新しい製品の話。今うちにいるレンには影響ないのではないだろうか。OSはアップデートしなければいい、新しいデバイスも導入しなければいい、現にここにいるレンのことが私は大好きだ。これからも彼と一緒に活動を続けたいと思っている。何の問題もないだろう。
「そう言ってくれてありがたいけどな。いっそ動けなくなるほうが楽かもよ」
レンが寂しそうにぽつりと言った。そのときはあまり気にせず、真意を問うこともしなかった。
そして翌週から突然仕事が忙しくなり、しばらくは音楽に触れることすらできなくなってしまい、その話はそれっきりだった。
新OSの発表から2年、これまで新OSが出てもなかなか乗り換えしないユーザや企業はいくらでもいたが、今回は違っていた。既存のソフトウェアや周辺機器の多くが使えなくなるデメリットを差し引いても、新OSは魅力的だった。
仕事がようやく一段落し、やっと時間に余裕ができた私は、新しいパソコン一式を購入し、そこに新しいボーカロイドを一通り導入した。いっぽうで以前のパソコンもそのまま残しておいた。今まで一緒にいたレンが活動できる場所を残しておきたかったからだ。
少し試してみると新しいOSと新しいボーカロイドの相性は抜群で、まるでこちらの感情が伝わるかのように素直に的確に歌ってくれた。誰でも手間いらず、というキャッチコピーは大げさでなかった。レンの歌は後回しになっていった。
先日、一度だけ前のパソコンでレンを歌わせてみた。久しぶりに聞いた彼の歌声はひどく稚拙で、きらびやかなステージに豪華な機材とともに活躍する今のボーカロイドと比べると、あまりにもみすぼらしく思えた。
昔みたいに多彩なレンを見かけることもなくなった。その代わり、誰もが一定のクオリティを得ることが保証されていた。感動すべきところで聴き手は感動できるようになった。多分もう、元には戻れないだろう。あの日の会話など、すっかり忘れていた。
コメント
szaki
ショートショートの雰囲気を目指して作りました。曲中で描かれている「レンが忘れ去られてしまう」というテーマ。実際にレンが忘れられるような事態が起こりうるとしたら……と考えて近未来的舞台を描いてみました。
ボーカロイドの創作が曲、絵ともにこれだけ盛んになったのは、クリプトンをはじめとする製品の提供者が細かい部分を設定しなかったことが理由の一つだと思っています。つまり、作り手側にゆだねられる部分が大きく、そこに創作が存在し得た結果、様々なバリエーションのボーカロイドが存在する文化が醸成されたのではないでしょうか。
小説の世界はその逆。五感を統制するようなデバイスというのはSF的でフィクションですが、現実世界でも商業的にボーカロイドの姿を固定化しようという動きが起きていることは否定できないと思います。鏡音に限らずボーカロイドの存在がより多くの人に知られることは嬉しいのですが、均一化されたボーカロイドがどこか手の届かないところに行ってしまう寂しさを感じてしまうのも確かです。作り手の皆さんの多彩な鏡音を楽しめるのが、この世界の魅力の一つだと思うのです。