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終焉の中から出づる序


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 夢はいつか終わりを迎える。明けない夜がないと同様に醒めない夢はない――ものごとには必ず始まりと終わりがある――だが、もしその終わり方に幾つもの選択肢が存在しているのなら、今度は違う結末を。



 何度も繰り返し見る光景は嫌というほど見てきて、忘れることなどできないくらい脳裏に刻まれた今でも夢という形で流れ続けている。夢の中の自分の身体は思うように動かすことができず、前を歩く彼の背を追うように足を進めるだけで意識は彼の背を掴み引き返すことを切望している。そちらへ行っては駄目だと、告げようにも口さえ動かなくてどうにかして彼を引き止めるための策を練るが、それをしたところで身体の自由がない自分に覆す術などない。
 あと一歩進めばあの光景が再現されるとわかっていて、もう見たくないとどんなに願っても夢は無情にも再現を続けようとする。こんな夢ならば醒めてしまえばいいのにと思う反面、動かない身体に抗い彼を掴もうとする自分がいて、もう自分がどうしたいのかさえわからない。
「  」
 口が徐に開き紡いだはずの自分の声はリンの耳には届かないが、彼の耳には届いたようで一度もこちらを見なかった彼がようやく振り返り――それが合図となったように悪夢が再現された。
「いやあああああああぁぁっ!!」
 叫びと共に覚醒した時はまだ部屋は夜の帳に包まれ、時計の針が静かに時を刻む音だけが響き渡っているが、静寂に近いこの部屋では時計の針よりも乱れた呼吸の音の方がずっとリンの耳についた。発したはずの叫びは現のものか夢のものか今のリンには判断できなくて、膝を抱え込むとそのまま顔を伏せる。
 この夢の意味をリンは既に理解していたが、したところで何かが変わるわけもなく、リンには何もすることはできない。相談などできるはずもなく、今日まで一人で抱え込んできたが正直この夢を見ることも【彼】に会いに行く勇気すらない。
「……大好き、だよ」
 呟いた言葉が誰のもので誰に宛てたものなのかも最早リンにはわからなかった。
 結局もう一度寝る気分にもなれずに本来起床するまでの時間をぼんやりと過ごしたあと、リンは支度を整えて朗らかな笑みを浮かべながら母親がいるキッチンに向かい、今日の帰宅時間などの会話をすると、今こうしてこの世で生きているのだと実感する。
「リン、最近ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。今ちゃんと寝ないと育たないじゃない。私はもっと身長を伸ばしたいから早く寝てる」
 どんなに早く寝てもあの夢によって明け方前には起きるので、睡眠をしっかり取っているという感覚はリンにはないが、親に心配をかけるわけにもいかないので気づかれるその日まで嘘を吐き続ける。これ以上追及されないように用意されていた朝食を摂り、鞄を掴むとそのまま家を出た。
 早朝の道は静寂に包まれていて歩いていても誰かと擦れ違うこともなく、まるで一人だけ取り残されたような気分になり、それは夢を彷彿させてリンは頭を振りその考えを振り払う。今は誰もいないがこの世界は様々な命に溢れていてその中にも彼が存在して、自分と同じように生きている。
「  」
 口から零れたのは声にならなかった空気の音で、本来ならばそれは彼の名の響きが乗るはずだったが、出さなかったということはいまだに自分は彼の名を言うことを恐れているらしい。言えば同じように消えてしまうと思っているのか、それとも再び夢と酷似したことでも起こるとでも思っているのか。
 いっそのこと夢も彼のことも忘れてしまえば楽なのに――それは自分には関係ないと割り切ってしまえばいいのに――どうしてもそうすることはできなくて、それも自分の一部として受け入れて生きている。彼女の思いを、叫びを忘れることなんてできない。
 早く学校に行こうと歩を進めていた時、曲がり角から見えた姿にリンの足は止まる。金髪に髪を一つに括っている男子――レンにこんな朝早くから会うなんて思ってもいなくて、踵を返して去ろうとする前に彼がリンの存在に気づいて逃げるタイミングを失った。
「おはよう、リンさん」
「……おはよう。朝、早いんだね」
「今日は珍しく早く起きれることができて、せっかくだから早く学校に行ってみようかと思って」
 いつもギリギリに登校しているからね、と告げながら破顔するレンは眩しくて、でもいつまでも見ていたくてリンは無意識にレンを誘い、一緒に学校に行くことになった。
 レンとは同じクラスだが接点はなく話したことは数えられるほどで、今こうして一緒に学校に行っていること自体が珍しい。休み時間になれば男女構わずに囲まれて賑やかに過ごすレンと、数人の友達と共に静かに過ごすリンはまさに正反対で接点がないという方が納得できる。
「リンさんはいつもこの時間に登校しているの?」
「うん。いつも早く起きるし家にいてもすることなんてないから、図書室に行って本を読んでる」
「リンさんって本が好きだよね。よく休み時間にも本を読んでいるし」
「好きってほど好きなわけじゃないかな」
 本当に好きならば本の世界を楽しむことができるのだろうが、リンは本の世界逃げていると言った方が正しい。何か別のことを考えていなければ思考はあのことばかりに向けられてしまうのでそれを回避するために本を読んでいるだけだ。そうやって本の世界に逃避し続けた結果、本を読んでいる間だけはそのことを忘れられるようになった。
 何か言われるかと思ったがレンはずっと沈黙したままで、リンはおそるおそる彼の方を見ると、意を決したような表情を浮かべていてリンはただそれを見詰める。どうしてレンがそんな表情をしているのか、それが知りたくてレンの言葉を待つ。
「あのさ、おかしい奴って思われるかもしれないけど、幼い頃からずっと声が聞こえるんだ」
 耳からではなく頭から聞こえて離れない声は絶えずに呼びかけていて、何度もそれに応えているのに返ってくる言葉は変わらない言葉。何故同じ言葉しか返ってこないのかと何度も疑問に思い、違う言葉で応えても結果は変わらずレンは一つの結論に辿り着く。姿なき声に応えるではなくこの声の持ち主を捜し出し、応えなければこの声は届くことはない。
「だから僕は捜しているんだ。この優しい声の持ち主を」
「そう、なんだ……」
 その声は昔にリンが放ったもので、今生でも声は消えることなくレンに呼びかけ続けているというのか。
 人として生を受ける前の生は人によって作られたデータの存在で、レンもまた同じ存在だったことを告げたら彼はどんな顔をするだろうか。パソコンの中で生きてマスターという存在のために歌を歌いそれを存在する意味として捉えながらも電子の世界で共に生きていた。データの存在だった二人を消去という死に追い詰めたのはアンインストールではなくタチの悪い即効性のウィルスで、ネット経由でパソコンの中に紛れ込みリンの目の前でレンを消去した。消えゆくレンを認めたくなくて、信じたくなくて懸命にかけ続けた声が転生したレンに聞こえ続けているという。あの時はただ必死でレンにいなくなってほしくなくて懸命にかけていた言葉だったが、新しく生まれ変わったレンに付き纏うそれはまるで呪詛のように思え、実際それはレンを縛っている。
「――持ち主には会えそう?」
 レンが誰に会いたがっているかわかっている上でこんな言葉をかける自分が卑怯なように思えたが、名乗り出るなんてことはできなくて。
「やっと会えたよ。ね、リン?」
 気づいた時には足が止まり優しく懐かしい温もりに包まれていて、背中に回された腕の力は強くこの抱擁に一寸の隙間も許されていない。前のことを覚えているのは自分だけだと思っていた。あの時のことは全部自分が覚えているから、レンは忘れていてくれて構わないと思っていたが、こうして覚えてくれていたということ、必死にあの時の声に応えてくれようとしていたことが嬉しくて仕方ない。
「……私ね、本当はあの時伝えたいことがあったの。いつもいつも言おうと思っていたのに言えなくて、あの日こそ絶対に言おうと思っていた」
「うん……」
「あんな終わり方を迎えるってわかっていたらもっと早く言えばよかった……! まだ終わらないって思っていたの、私たちのボーカロイドとしての生はずっと続くんだって思っていた。だからずっと後悔していたの」
 インストールされて長い時間を共にしてきて、いつかは夢と同じように終わってしまうとわかっていたのに永久に続くと錯覚してしまっていたあの頃。だから言いたいこともまた明日言えばいいと先伸ばしにして、あの日を迎えて告げることが永久にできなくなってしまった。
「僕も後悔していた。リンを遺してしまったこと、僕もリンに伝えたいことがあったのに。守るって決めたのに守れなかったから」
「好きだよ、レン。今も昔もずっと好きなの……。ずっと傍にいたいの、他に何もいらないから……だからいなくならないで、傍にいて……っ!」
「うん。今度はずっと傍にいる。絶対にリンから離れたりしないから」
 ようやく伝えることができた気持ちにリンは心からの笑みを浮かべレンの胸に顔を埋めた。すっぽりと収まるくらい自分より小さい彼女は前世からどれほどの思いを抱えて生きてきたのか想像することはできないが、ずっと聞こえてきた声からその思いの強さだけはわかる。
「僕も好きだよ、リン」
 言いたいことはたくさんあるが、今はこの言葉に全ての思いを乗せて彼女に届ける。今生では彼女に前世のような思いをさせずに幸せで満たして、隣でずっと笑ってもらえるように、そのためならなんだってしよう。
 ――どうか今生では幸せな終わりを迎えられますように



コメント

由宇 由宇
ずっと曲をリピートしながら書いてできあがった話ですが、曲から逸れているような気がします……。始めの歌詞や今の君に僕の声が届いていますか、からいろいろ妄想した結果できたのが悲惨な終わり方を迎えて生まれ変わった鏡音の話になりました。ボーカロイドとして生きていたリンちゃんが最期どうして消えてしまったかなど、書ききれてないところはありますがそこは脳内補完してもらえれば幸いです。鏡音に幸がありますように

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